1933年3月にナチスが設置したダッハウ強制収容所は、ドイツ南部のミュンヘンから約16キロ北西に位置していました。この収容所の初期の囚人は、ドイツ共産党員、社会民主党員、労働組合員、エホバの証人、ロマ族(ジプシー)、同性愛者、常習犯で占められていました。一万人以上のユダヤ人男性が収容された(水晶の夜)と呼ばれる暴力の結果、ダッハウ収容所のユダヤ人の囚人数は、増加しました。1933年から1945年の間にダッハウ収容所に投獄された囚人の数は188,000人を超えました。1940年1月から1945年5月の間にこの収容所や他の下位収容所で死亡した囚人の数は少なくとも28,000人で、この数に1933年から1939年末までに亡くなった人数が加算されます。ダッハウ収容所で死亡した犠牲者の総数が明らかになることはないものと思われます。ダッハウ収容所は親衛隊の収容所護衛兵のトレーニングセンターであり、この収容所の組織と慣例がすべてのナチス強制収容所のモデルとなりました。

ダッハウ収容所では、ドイツ人医師が囚人に対して人体実験を行っていました。たとえば、減圧室を使った高高度実験、マラリアや結核の実験、低体温実験、新薬投与実験などです。これらの実験の結果、数百人の囚人が死亡したか、回復不能な障害を負いました。さらにダッハウ収容所の囚人は、収容所運営のための強制労働者として建設プロジェクトや手細工の労働に駆り出されました。ダッハウ収容所には30を超える大規模な下位収容所があり、これらの場所では3万人以上の囚人がドイツ軍兵器の製造に従事していました。数千人の囚人は死ぬまで労働を強いられました。1945年、東側の収容所から多数の囚人が続々とダッハウに到着すると、チフスの蔓延が深刻な問題となりました。1945年4月29日、ダッハウ収容所は米軍によって解放されました。米軍はこの収容所までの道のりで、死体が詰まった30を超える列車を発見したのです。