Marzahn, the first internment camp for Roma (Gypsies) in the Third Reich.

戦前のドイツにおけるロマ族(ジプシー)の迫害、1933〜1939年

Serbs and Roma (Gypsies) being deported to Kozare and Jasenovac, both Croatian concentration camps.

クロアチアの強制収容所のコザールとヤセノヴァツに移送されるロマ族(ジプシー)。1942年7月、ユーゴスラビア。

Credits:
  • Muzej Revolucije Narodnosti Jugoslavije

ドイツそしてヨーロッパ全域に渡るロマ族(ジプシー)の迫害は、1933年にナチスが政権を握る前から行われていました。ドイツのバイエルン州の警察では、1899年頃からロマ族の名簿を一括管理しており、その後、ミュンヘンのロマ族に対する治安活動を調整するための委員会を設立しました。1933年に、ドイツの警察は「ジプシー」と見なされるライフスタイルを送っている人々に対してナチス以前の法律をさらに厳しく取り締まり始めました。ナチスはこのような人々を人種的に「望ましくない」と判断し、ロマ族に対する組織的な迫害政策を制定しました。

ロマ族には他民族の血が流れているものと判断した後のナチスの主な関心事の1つは、すべてのロマ族の人々を組織的に特定することでした。「ロマ族」の定義は、組織的な迫害を行うにあたって重要でした。この意味ではユダヤ人を分類することの方が簡単でした。ユダヤ教団が保持していた記録を国が簡単に入手できたためです。ドイツのロマ族は数世紀にわたってキリスト教徒であったため、ロマ族の血筋を判断する上で教会の記録は役に立ちませんでした。

ナチスは民族衛生に目を向け、身体的特徴に基づいてロマ族を特定しようとしました。テュービンゲン大学の児童心理学者であるロベルト・リッター博士は、ロマ族の研究における中心人物となりました。彼の専門は犯罪生物学でした。これは、犯罪行為は遺伝的に定められるという考えです。1936年に、リッター博士は保健省の人種衛生および人口生物学研究所の所長となり、ロマ族の民族研究を開始しました。リッター博士は民族タイプによりドイツに住む推定3万人のロマ族を探し出して分類するという作業に着手しました。彼はロマ族を分類するために、身体検査や人類学的検査を実施しました。疑似科学による独自の判断を記録するというリッター博士独自の主張に反して、彼のチームはロマ族との面談により血筋を判断して記録するという手段に頼りました。リッター博士の面談担当者は、親戚や最新の居住地を明らかにしないと、逮捕して強制収容所に収容するといって面談相手を脅しました。このようにして、リッター博士はドイツに住むほぼすべてのロマ族の名簿を作成したのです。

Roll call at an internment camp for Roma (Gypsies).

ロマ族(ジプシー)の捕虜収容所での点呼。1940年〜1941年、オーストリア、ラッケンバッハ。

Credits:
  • Bundesministerium fuer Inneres, Wien, Archiv des Oeffentlichen Denkmal

リッター博士は研究の結果、インドを起源とするロマ族は以前はアーリア人であったが、長期にわたる移住の間に劣った民族と交わったことにより堕落したものと宣言しました。リッター博士は、ドイツの全ロマ族の90%は混血であり、その結果「退廃した」血筋と犯罪特性を持っているものと推定しました。これらのロマ族は脅威であるとされたため、リッター博士は彼らに強制的に不妊手術を施すことを推奨しました。またリッター博士は、残りの純血のロマ族は特別保留地に収容してさらに調査するべきであると主張しました。実際には、リッター博士の言う純血ロマ族と混血ロマ族はほとんど区別がなされませんでした。彼らすべてがナチスの迫害政策、そしてその後の大量殺戮の対象となりました。

1936年に、ナチスは親衛隊長官でドイツ警察長官であったハインリヒ・ヒムラーのもとで、ドイツの全警察権力を中央集権化させました。その結果、ロマ族に対する警察の政策も中央管理されるようになりました。ヒムラーはベルリンに有害なジプシー弾圧のための国家中央局を設立しました。この機関はロマ族を組織的に迫害するための国家的政策を引き継ぎ、拡大しました。

この機関が最初に決定した事項の1つは、ロマ族に民族法を適用することでした。1936年以降、ロマ族にはニュルンベルク法、遺伝性疾患の子孫を防止するための法律、および危険常習犯に対する法律が適用されました。国家に目を付けられた多くのロマ族には避妊手術が強制されました。

Marzahn, the first internment camp for Roma (Gypsies) in the Third Reich.

第三帝国内で初となるロマ族(ジプシー)捕虜収容所のマルツァーン。ドイツ、日付不明。

Credits:
  • Landesarchiv Berlin

1936年のベルリンオリンピック大会の開幕直前に、警察は大ベルリンのロマ族全員を逮捕し、ベルリン東部の墓地および下水処理場近くの空き地であったマルツァーンに強制的に移転させることを命じました。警察はすべてのロマ族野営者たちを包囲し、住民と荷車をマルツァーンに移送しました。逮捕は1936年7月16日の午前4時に始まりました。制服姿の警察官が野営地を監視し、この場所への自由な出入りを制限しました。逮捕された600人のロマ族の多くはその後も毎日仕事に出かけましたが、毎晩そこに戻ることが求められました。その後、彼らは兵器工場で強制労働を強いられました。

ドイツ全土で、各地の市民と警察署の両方がロマ族を各自治体の収容所に強制連行し始めました。その後これらの収容所はロマ族の強制労働収容所となりました。1935〜1938年の間にナチスが設立したマルツァーンおよび他の都市のジプシー収容所(Zigeunerlager)は、ジェノサイドへと向かう前段階となりました。たとえば、1938年にはマルツァーンに収容されていた男性がザクセンハウゼンに送られ、彼らの家族は1943年にアウシュビッツに移送されました。

また、ロマ族は「反社会的」または「常習犯」としてそれぞれ逮捕され、強制収容所に送られました。ドイツのほぼすべての強制収容所は、ロマ族の囚人を収容していました。収容所では、すべての囚人はさまざまな形状や色の印を身に付けており、囚人のカテゴリーごとに識別されていました。ロマ族は、「反社会的」のシンボルである黒の三角の飾り布または「プロの」犯罪者のシンボルである緑の飾り布を身に付けていました。

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