Item 1 of 2
Items 1 through 1 of 2
Items 1 through 1 of 2
Your browser does not support this video element. Please consider using a more recent web browser.
エドワード・アドラー
エドワードは、ハンブルクでユダヤ人家族のもとに生まれました。1935年、ニュルンベルク法により、ユダヤ人ではないドイツ人とユダヤ人との結婚や婚外交渉が禁じられました。このとき、エドワードは20歳台半ばでしたが、ユダヤ人以外の女性と付き合っているとして逮捕されました。常習犯とみなされたエドワードは、その後、ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所に送られ、建設プロジェクトでの重労働を強いられました。エドワードは収監される直前に結婚し、妻はドイツ国外への移住の準備をしました。1938年9月、釈放されたエドワードはドイツを離れました。アムステルダム(オランダ)の親戚のもとで過ごし、後に米国に移住しました。
マルティン・ハンス・ムンツェル
ハンスは、ドイツ北西部の町でユダヤ人の両親のもとに生まれました。ハンスの父親が中学校の歴史の教職を得たので、家族はベルリンに移ってきました。大学を卒業後、ハンスはマルガレットと言う女性と結婚し、ベルリンのアパートに落ち着きました。1920年、最初の子、ウォルフガングが生まれました。ハンスは、裁縫道具を作る会社の海外担当として働きました。
1933年〜1939年: ナチスが数週間前に選挙で勝ったとき、私のような社会主義政党の活動家がどうなるか心配でした。私の予感は当たっていました。私たちの家の扉の下に、警告を書いた紙がそっと押し込まれていたのです。ナチスは社会主義者を一斉検挙していました。そして社会民主党の地区長である私もリストに載っていました。私達は急いで逃げることにし、他の地区に別の名前で部屋を借りようとしました。
1940年〜1944年: 私がドイツから逃げ出して10年近く経ちました。私の2番目の妻であるリュシーと私は、パリに住んでいましたが、共同経営者とうまくいかなくなってから、ニースに移ることにしました。この町はフランスの中でもユダヤ人の天国のようなところでした。なぜならイタリア人がこの地域を占領したのですが、ユダヤ人を放っておいてくれたからです。リュシーと私は、貸出図書館を経営しています。時々、私達はスペインに行って、そこから米国へ行こうと考えることもありましたが、フランスでもまだ安全だと思っていました。
1943年9月にドイツ軍がニースを占領しました。6か月後、ハンスとリュシーはパリ郊外のドランシ経由で、アウシュビッツに移送され、その日にガス室に送られました。
ハインツ・ローゼンベルグ
ハインツはドイツの大学都市ゲッティンゲンで、ユダヤ人一家の3人兄弟の末っ子として生まれました。彼の父親はリネン工場を経営していました。ハインツの祖父がこの工場を設立して以来、ずっと家族経営を続けてきました。ゲッティンゲンのユダヤ人人口は少なく、シナゴーグは1つだけでした。ハインツは町の公立学校に通いました。
1933年〜1939年: 1933年にナチスはドイツで政権を握りました。1年後、工場は停止され、3人の突撃隊の男たちが私たちの家にやってきました。上官はテーブルの上に銃を置き、一家が1週間以内に出て行かなければ、一家も家具も窓から放り投げると父に告げました。1か月も経たないうちに私たちはハンブルクに移り住みました。ナチスの命令で、私は学校に通うことを禁止されたため、複数の仕事を掛け持ちで働きました。また、強制労働者としてナチスに指名されました。
1940年〜1944年: 1941年、私も家族も、「ユダヤ人である私は国家の敵として移送されます」と書かれた書類に強制的に署名させられました。私たちは、東部で働くことになると言われました。家族の多くは、「事態はそれほど悪い訳ではないだろうし、すぐ家に帰ってこれるだろう」と考えていました。列車に乗り、4日間かけてソ連のミンスクに着きました。列車から降りるとき、屋根のない家畜運搬車に押し込められたソ連軍捕虜に対して、護衛兵が一切れのパンを投げ入れるのを目にしました。飢えた捕虜たちがパンを奪い合うと、ドイツ軍の護衛兵が彼らを射殺しました。そして私は、もう家に戻ることはないだろうと悟ったのです。
ハインツは、1943年までミンスクのゲットーで過ごし、その後2年間は、11か所ものナチス収容所に移送されました。彼は、ミンスクのゲットーに何万人もいたユダヤ人のうち、生き延びたわずか数名の1人です。
アンナ・プフェッファー
アンナは、無宗教のドイツ系ユダヤ人の両親のもとに生まれ、家族の間ではエンシェンという愛称で呼ばれていました。父親はアンナがまだ幼いころに亡くなり、アンナは、貧しくなった母親によってブルッフサールという町で育てられました。アンナは1905年に裕福で年配の紳士と結婚し、洗練された都市、デュッセルドルフに移りました。アンナの夫はそこでデパートの支配人として働いていたのです。1933年には、2人の息子も成人していました。
1933年〜1939年: プフェッファー家の豊かな生活は、ナチスが権力を握った後に崩れてしまいました。ナチスはアンナの兄を逮捕し、強制収容所に送り込みました。彼はそこで殺害されてしまったのです。アンナの長男は、オランダ人女性と結婚していたので、オランダに移住しました。アンナの夫も職を失いました。1938年11月に起こったユダヤ人大虐殺(ポグロム)の後、プフェッファー家もオランダに移住しました。そこで、長男一家と一緒に暮らすことになりました。
1940年〜1944年: アンナの夫は死去し、アンナは孫と共にアムステルダムに住んでいました。1940年5月、ドイツ軍がオランダを占拠しました。ユダヤ人は登録するよう命令を受け、ユダヤ人の権利は大幅に剥奪されました。他のユダヤ人と同様、アンナも所有していた財産を失ったのです。黄色い星を付けるように強制されてから1年後、アンナは家族から引き離され、ヴェステルボルクにあるユダヤ人の一時収容所に移送されました。4か月後、アンナはチェコスロバキアにあるテレージエンシュタットのゲットーに移送されました。
1944年10月9日、アンナはテレージエンシュタットからアウシュビッツに移送され、2日後にガス室で殺害されました。58歳でした。
アドルフ・ヒトラーは、1933年1月にドイツの首相となった後、またたく間にドイツを一党独裁国家にして、ナチスの政策を実行するために必要な警察権力を組織しました。ヒトラーは内閣を説得して非常事態を宣言させ、出版、言論、結社の自由を含む個人の自由を奪いました。個人のプライバシーの権利は失われ、それは官憲が令状なしで人々の郵便を検閲し、電話を傍聴し、家宅捜索を行うことができることを意味しました。
ヒトラーは目的を達成するために恐怖政治にも頼りました。何万人もの無職の若者が給与、仲間意識、格好の良い制服に魅せられて、茶色のシャツと皮のロングブーツに身を包み、ナチスの突撃隊(シュタームアップタイルンク)の仲間入りをしました。SAと呼ばれたこの予備警察隊は、街に出てナチス政権に反対する人々に対して暴行や殺人を行いました。SAはその恐怖だけでナチスを支持しなかった他のドイツ人を沈黙させました。
重要な日付
1933年3月31日 ドイツ各州の統治にナチ党員の知事が任命される アドルフ・ヒトラーは、選挙で選ばれた各州知事をナチスの任命した知事に置き換えます。ドイツにおいて中央集権的なナチス支配を確立するために最初に行ったことの1つは、州知事の排除です。ナチス指導者の1人、ヘルマン・ゲーリングはドイツの一番大きな州であるプロイセン州の首相になります。1935年には、州の行政がベルリンにある中央政府に移管されます。
1933年5月2日 ナチスが労働組合の支配権を握る 突撃隊(SA)と警察が労働組合の事務所を占拠し、労働組合の幹部と活動家が恫喝されます。労働組合の記録が没収され、資産が押収されます。組合は強制的にナチスの組織であるドイツ労働戦線に統合させられ、独立した労働者の代表はこれで消滅します。
1933年7月14日 ナチ党が国家政党になる ナチ党以外のすべての政党が解散させられます。ナチ党がドイツで唯一の公認政党になり、この状態は1945年の敗戦まで続きます。これでドイツは一党独裁国家になります。ナチ党の党員は1935年には250万人に増加し、最終的には1945年に850万人になります。
1933年7月20日 アドルフ・ヒトラーがカトリック教会と協約を結ぶ ドイツ政府とバチカン(ローマのカトリック教会の最高権威)との間で取り交わした協約では、カトリック教徒の個人的な信仰の自由は保障されたものの、カトリック系の政治的組織および労働組織は解散させられます。バチカン(独立国家としての地位を持っていた)はアドルフ・ヒトラー政府の正当性を公式に認知した最初の国でした。その協約にも関わらず、ナチスはカトリックの宗教的組織、文化的組織、牧師、そして学校を迫害し続けます。