1941 年12 月 7 日、フランクリン D ルーズベルト大統領が未來永劫に「不名誉に残る」と言った日に、 大日本帝国海軍が真珠湾に奇襲航空攻撃を行いました。この挑発なき攻撃により、米国はただちに日本に宣戦を布告し、第二次世界大戦に突入しました。

真珠湾は当時、そして現在も太平洋における最も重要なアメリカ海軍の基地であり、米国太平洋艦隊の本拠地です。それはハワイのオアフ島にあります。

日本がパールハーバーを攻撃する

背景:1930 年代の日本の領土拡大

1930 年代以降、日本政府は右翼の軍部指導者の影響をますます受けるようになり、彼らは環太平洋地域により大きな大日本帝国を設立することを目指しました。米国、英国、ソ連、中華民国はこの拡張政策への重大な障害となっていました。

日本の侵略は 1931 年 9 月に中国から満州を奪ったことに始まります。翌年、征服した領土は中国最後の皇帝である溥儀を名目の指導者とする日本の傀儡国家、満州国(1932~1945 年)に転換させられました。国際連盟はこの事件を調査し、日本が宣戦を布告せずに中国の領土の大きな部分を強制的に奪取し、占領したとの結論を出しました。国際連盟は、日本兵を占領地から撤退するよう要求しました。これに対し、日本は1933 年 3 月に国際連盟から脱退しました。国際連盟と米国はいずれも、この名ばかりの独立国家を承認しませんでした。

1930 年代の半ばになると、日本の軍部は外交政策と国内政策により大きな権限を振るうようになりました。日本は、その艦隊の規模を制限した国際海軍軍縮会議への参加を撤回しました。軍艦の建造は劇的に増大し、1941 年までに日本は世界第 3 位の海軍をもつに至りました。太平洋では、日本海軍は米英両国の艦隊を合わせた勢力を凌ぐようになりました。陸軍も急激に拡大し、1936 年から 1941 年までの間に 2 倍の規模となりました。同時に、日本はドイツのナチス政権、イタリアのファシスト政権と接近し、1936 年 11 月に「防共協定」、1940 年 9 月に「日独伊三国条約」に署名し、枢軸国の一角となりました。

1937 年 7 月、日本軍と中国軍の間で戦闘が勃発し、全面的な戦争に発展し、それは1945 年まで続きました。

日本の侵略は米国をはじめ世界中に激しい非難を巻き起こします。1937 年 10 月 5 日、フランクリン D ルーズベルト大統領は「まさに文明の基盤が深刻に脅かされている」と警告しました。大統領は特定の国を名指しませんでしたが、その警告は中国における日本の行動、スペイン内戦へのドイツとイタリアの干渉に対し、アメリカの懸念を示すことを目的としていました。「世界中の無法という伝染病」の広がりを阻止するには、「隔離」が必要だったのです。ルーズベルトがおそれたのは、日本の拡張主義が中国に留まらず、香港、インドシナ、フィリピンへと広がり、米国の脅威となることでした。

国際連盟は中国での日本の行動を非難しましたが、戦闘の停止を目指す外交努力には失敗しました。ルーズベルトは米英海軍共同で日本を海上封鎖することを検討しました。それは、特に日本の航空機が哨戒船USS パナイを含むアメリカ船舶を数隻、並びに中国で英国の船舶を攻撃して沈没させた後、1937 年 12 月に検討されましたが、国内の孤立主義と外国の宥和政策により、そのような努力も終わってしまいました。

ヨーロッパ大陸で戦争が勃発すると、日本はそれにつけ込んで、アジアで領土を占領しました。フランスがナチス・ドイツに敗れた後、大日本帝国政府はヴィシー政権に圧力をかけ、インドシナから中国への軍事物資の供給を断ち、日本兵がインドシナに駐屯することを認めさせました。1940 年の秋、米国政府は戦渦にある中華民国に対し航空機と貸付け金の提供を申し出、その後、日本への航空機燃料、鉄と鋼鉄を含む金属屑の輸出を禁止する経済制裁を発動しました。また、1941 年夏から秋にかけて、米国は日本の資産を凍結し、日本への石油輸出を禁止しました。

真珠湾攻撃の計画

米国の政策と制裁が攻撃的になるにつれ、日本の司令部は太平洋の米国拠点、特にフィリピン、グアム島、ウェイク諸島、そして真珠湾の太平洋艦隊を攻撃することを決定しました。

日本司令部のジレンマは、アメリカのより強大な海軍力と潜在的な経済力にどう立ち向かうかということでした。

そこで浮上したのが、真珠湾で太平洋艦隊を壊滅し、同時に他の米国の前線の拠点を排除する奇襲攻撃でした。その戦略目標は、太平洋における米国の海軍力を麻痺させ、米国が日本の征服を妨害できなくすることでした。

日本の司令部は、米国が立ち直り再軍備するまでに、米軍が打破できない、あるいは打破するのを躊躇するような壮大な防衛戦を米国が目の当たりにすること望んでいました。米国の探知を逃れるために、厳重な無線封鎖を敷き、船舶航路を避けて、巨大な海軍の攻撃部隊が日本から出航しました。

攻撃

真珠湾

1941 年 12 月 7 日の朝 7 時 55 分、6 隻の航空母艦から飛び立った二波の日本海軍の戦闘機の第一波が真珠湾を攻撃し、完全に米軍の不意を打ちました。2,400 名の船員と兵士が死亡し、1,200 名が負傷しました。半数を優に超える軍用機が損傷または破壊され、ほぼすべてが飛行不能となりました。

停泊していた米国艦船はすべて攻撃を受け、戦艦アリゾナおよびオクラホマの2隻は完全に破壊されました。日本軍航空部隊司令官達は3度目の攻撃を要請しましたが、攻撃部隊の指揮をとった南雲司令長官はこれ以上の大きな損失を避けたく、また奇襲作戦は成功したと想定し、これを拒否しました。

表面的には真珠湾攻撃は確かに素晴らしい成功に見えました。米国太平洋艦隊は、攻撃勢力として事実上排除され、当面の間は日本の拡張政策に干渉することは不可能となりました。加えて、この攻撃で日本軍が失った航空機はわずか 29 機でした。しかし、詳細に調べると、戦略的見地から見て、この作戦は失敗でした。

つまり、最も重大なことは、米国艦隊の最も重要な艦船である航空母艦は、攻撃時には演習中で基地に停泊していなかったのです。

第 2 に、米国の石油供給、潜水艦隊、修理施設は被害を受けなかったことです。

第 3 に、最も重要な軍艦は甚大な被害を受けたものの、2 隻以外はすべて、最終的に引き揚げられ、修理され、再び就役に戻ることができました。

その上、この攻撃はそれまで無関心だった米国市民を戦争支持へと奮い立たせました。

世界における反響

真珠湾攻撃は、ハワイや米国を遥かに越えた衝撃を与えました。アドルフ・ヒトラーは攻撃を称賛し、米国が日本に対してのみ宣戦を布告したのにもかかわらず、米国に宣戦を布告しました。真珠湾攻撃の前は、多くのアメリカ人が孤立主義的な姿勢を維持しており、ヨーロッパの戦争に巻き込まれることに消極的でした。

ヒトラーの宣戦布告は彼の最大の誤りの一つだと多くの歴史家は見ています。それから 1 年もたたないうちに、米国の地上部隊がドイツ軍と北アフリカで戦うことになります。加えて、ナチス・ドイツの第一の敵であったソビエト連邦に対する米国の物資支援が全速力で進められました。

真珠湾攻撃は、ホロコーストに小さいながらも明白な影響を与えています。「最終的解決」の実行に責任を負う組織を調整することを目的としたヴァンゼー会議は、もともと12 月 8 日に予定されていましたが、1941年12月初めの出来事を踏まえ、ラインハルト・ヘイドリッヒはこの会議の開催を1942 年1月20 日に変更することを強いられました。