<p>収容所解放時に撮影されたアウシュビッツ収容所の鉄条網のフェンスと宿舎。1945年1月、ポーランド、アウシュビッツ。</p>

アウシュビッツ

アウシュビッツ アウシュビッツはドイツ人が設置した最大規模の強制収容所でした。アウシュビッツは、火葬場、絶滅収容所、および強制労働収容所がある強制収容所の集合体でした。ポーランドのクラクフ近郊にありました。アウシュビッツ強制収容所は、アウシュビッツ第1強制収容所、アウシュビッツ第2強制収容所(ビルケナウ)、およびアウシュビッツ第3強制収容所(モノヴィッツ)の3つの大規模な強制収容所で構成されていました。収容されていたユダヤ人の10人中9人、100万人を超える人々がアウシュビッツで命を失いました。4つの巨大なガス室は、それぞれ同時に2,000人が入れました。

収容所の入り口に掲げられている看板には「ARBEIT MACHT FREI」と書かれていました。これは「働けば自由になる」という意味です。実際は、その全く逆でした。労働は、ナチスが「労働による絶滅」と呼ぶ大量虐殺の形になりました。

仕事を課せられることで即死を免れた犠牲者たちは、個々のアイデンティティを組織的に奪われました。髪の毛を剃られ、左前腕部には登録番号が彫られました。男性は破れた縞模様のズボンと上着を着用し、女性は作業着を身に着けました。履き物は男女共にサイズが合わない作業靴が支給され、木靴の場合もありました。着替えの持ち合わせはなく、作業をしているときと同じ服装で眠りました。

毎日が耐え難い状況下での生き残りを賭けた闘いでした。囚人たちは窓のない原始的な宿舎に収容され、暖房や防寒の措置はありませんでした。浴室はなく、バケツ1個のみ。各宿舎に約36の2段ベッドがあり、囚人たちは木の厚い板の上に5〜6人が押し込められました。1棟の宿舎で500人もの囚人が寝起きしていました。

彼らは常に空腹でした。食事の内容は、腐った野菜や肉で作った水分が多いスープ、数オンスのパン、わずかなマーガリン、紅茶またはコーヒーに似た苦い飲み物でした。誰もが下痢になりました。脱水症や空腹で衰弱した人たちは、あっけなく収容所で広まっていた伝染病の犠牲になりました。

囚人の中には、収容所内の強制労働者として働く人もいれば、収容所の台所で働いたり、床屋として働く人もいました。女性は山積みの靴、衣服、およびその他の囚人の持ち物を仕分けることもありました。これらはドイツで使用するためにドイツに送られる物でした。複数の火葬場のうちの2つに近接していたアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の保管倉庫は、ポーランド人が非常に豊かな土地であると見なしていた国「カナダ」にたとえ、そう呼ばれていました。アウシュビッツでは、ドイツが強制労働者を利用していた帝国や占領下のヨーロッパにあるその他の数百に及ぶ強制収容所と同じように、炭鉱や岩石の採掘場、建設工事、トンネルや運河の造成など、強制収容所の外でも囚人が雇われていました。武装した看守の下、囚人はシャベルで道路の雪を掃き、空襲に攻撃された町に道路から瓦礫を取り除きました。最終的に多数の強制労働者が、武器やドイツの戦争を支援するためのその他の物品を生産する工場で働かされました。I. G. Farben、Bavarian Motor Works(BMW)など、自動車や飛行機のエンジンを製造していた多くの民間企業が、低賃金での労働力の供給源として囚人の使用を熱心に依頼していました。

アウシュビッツからの逃亡は、ほぼ不可能でした。強制収容所と絶滅収容所の両方が、電流の流れる有刺鉄線のフェンスで囲まれていました。多くの監視塔には、機関銃と自動小銃を装備した護衛兵が立っていました。囚人の生命は、気まぐれに残忍な刑罰を加えることができる護衛兵によって完全に支配されていました。囚人たちは、この護衛兵による特別な計らいの見返りとして、囚人の監視役に選ばれた同志である囚人にも虐待されました。

アウシュビッツでは、残忍な「人体実験」が行われました。男性、女性、そして子供たちが被験者として利用されました。ナチスの医師であるヨーゼフ・メンゲル博士は、幼児を含む発育障害者や双子に対して痛みを伴う衝撃的な実験を実行しました。いくつかの実験の目的は、ドイツ軍の兵士やパイロットのためにより優れた治療法を探すことでした。その他の実験では、ナチスが劣っていると見なす人々を不妊にする方法を向上させることを目的としていました。この実験中に多くの人々が亡くなりました。その他の人々は「研究」が完了し、殺害されて、後の研究のために臓器を取り出しました。

アウシュビッツの大部分の囚人が生きていられたのは、わずか数週間または数か月でした。病気や衰弱が進んで作業できない人たちは、ガス室での死刑に処されました。高圧電線に自ら身を投げて自殺を図る人もいました。歩く死骸のように心身共に衰弱する人もいました。けれども、生き続けることを固く決心した囚人もいました。

重要な日付

1940年5月20日
アウシュビッツ第1強制収容所、開所

アウシュビッツ収容所の主要な収容所であるアウシュビッツ第1強制収容所は、オシフィエンチム近郊に設置された最初の収容所です。建設は、1940年5月に、オシフィエンチム郊外のザソレの以前はポーランド軍に使用されていた砲兵隊の宿舎で始まりました。強制労働者を使用することで、収容所は拡大し続けます。アウシュビッツ第1強制収容所は主として強制収容所であり懲罰的な役割を果たしていますが、ガス室や火葬場も備えています。急造のガス室は、監獄の地下にあります(ブロック11)。後に、火葬場にガス室が作られます。

1941年10月8日
アウシュビッツ第2強制収容所(ビルケナウ)の建設、開始

アウシュビッツ第2強制収容所またはアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の建設がブジェジンカで始まります。アウシュビッツ強制収容所の一部としてオシフィエンチム近郊に設置された3つの強制収容所の中で、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の収容者数は最大で、電流が流れる有刺鉄線のフェンスで区切った9つの区域に分割され、親衛隊と犬が巡回しています。強制収容所には、女性、男性、ロマ族(ジプシー)、およびテレージエンシュタットのゲットーから移送されてきた家族のための区域があります。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所は、ヨーロッパのユダヤ人を根絶するというドイツの計画において中心的な役割を担っています。1943年の3月から6月までに4棟の大規模な火葬場が建設され、それぞれが脱衣所、大きいガス室、焼却炉の3部屋で構成されています。ガス室の運用は1944年11月まで続きます。

1942年10月
アウシュビッツ第3強制収容所、開所

ドイツ人はモノヴィッツにアウシュビッツ第3強制収容所(通称ブナまたはモノビツェ)を設置し、ブナの合成ゴム製造作業(ドイツの複合企業であるI.G. Farbenの一部)に強制労働者を供給しています。I.G. Farbenは、アウシュビッツ第3強制収容所に7億ライヒスマルク(1942年時点で約140万米ドル)を投資しました。強制労働を課せられた囚人は、登録の上、アウシュビッツ第1強制収容所で左腕に識別番号を彫られます。その後、アウシュビッツ強制収容所またはアウシュビッツ第3強制収容所に隣接した多くの補助収容所のいずれかで、強制労働を割り当てられます。

1945年1月27日
ソ連軍、アウシュビッツ強制収容所を解放

ソ連軍はアウシュビッツ強制収容所に侵攻し、生存していた囚人を解放します。収容所に残っていたのは、わずか数千人の囚人のみです。ほぼ6万人の囚人(大部分がユダヤ人)が、この解放の直前に強制収容所からの死の行進を強いられました。アウシュビッツ強制収容所での強制避難時に、囚人は容赦のない不当な扱いを受けて多くが死亡しました。親衛隊は歩みが遅れた者すべてを射殺しました。この短期間で、100万人近いユダヤ人がアウシュビッツで殺害されました。その他の犠牲者には、7万〜7万4,000人のポーランド人、2万1,000人のロマ族(ジプシー)、および戦争による約1万5,000人のソ連軍捕虜がいました。

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