German tanks on the eastern front © IWM (HU 111382)

ヨーロッパにおける第二次世界大戦

ホロコーストは第二次世界大戦の広範な背景で行われました。第一世界大戦の敗北にまだよろめきながら、ヒトラーの政府は、東ヨーロッパに広大な新しい「生活圏域」(レーベンスラウム)の帝国を想定していました。 ドイツのヨーロッパ覇権の実現には戦争が必要であると、指導者たちは計算していました。

1939年
ソビエト連邦との中立性を確保した後(1939年8月の独ソ不可侵条約により)、ドイツは1939年9月1日にポーランド侵攻によって第二次世界大戦を開始しました。英国とフランスは、9月3日にドイツに対して宣戦布告して応戦しました。1か月も経たないうちに、ポーランドはドイツ軍とソ連軍に敗れ、ナチスドイツとソ連に分割占領されました。

1940年
ポーランド敗北後の戦闘の小康状態は、ドイツ軍がノルウェーとデンマークに侵攻した1940年4月9日に終わりました。 1940年5月10日、ドイツは、戦争において中立的立場をとっていた低地帯(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、およびフランスに侵攻し、西ヨーロッパへの襲撃を開始しました。 1940年6月22日、フランスはドイツと休戦協定を結び、国土の北部半分はドイツに占領され、南部の都市ヴィシーにはいわゆる裏切り者政権が設立されました。

ドイツの奨励により、ソビエト連邦は1940年6月にバルト海沿岸諸国を占領し、1940年8月に正式に併合しました。枢軸国(ドイツと同盟を結んでいた国)の1つであるイタリアは、1940年6月10日に参戦しました。1940年7月10日から10月31日まで、ナチスは英国上空で「ブリテンの戦い」として知られる空中戦をしかけ、最終的に敗北しました。

1941年
1941年4月6日にユーゴスラビアとギリシャに侵攻してバルカン地方を確保した後、ドイツとその同盟国は1941年6月22日に、独ソ不可侵条約に直接違反してソ連に侵攻しました。 1941年6月と7月に、ドイツ人はまたバルト海沿岸諸国を占領しました。 ソビエトの指導者ヨシフ・スターリンは、そのときからナチスドイツと枢軸国に反対する戦時中の主要な連合国指導者となりました。 1941年の夏と秋、ドイツ軍はソ連に深く侵入していましたが、赤軍による抵抗でレニングラードやモスクワといった重要な都市を占領することができませんでした。 1941年12月6日、ソ連軍は大規模な反撃を行い、ドイツ軍をモスクワ近郊から永久的に排撃しました。 その次の日の1941年12月7日、日本(枢軸国の1つ)はハワイの真珠湾を攻撃しました。 米国は即時日本に宣戦布告しました。 12月11日、ドイツとイタリアは、軍事紛争の広がりと共に米国に宣戦布告しました。

1942〜1943年
1942年5月、英国空軍はドイツの都市ケルンに何千もの爆撃機による空襲を行い、初めてドイツ国内が戦場となりました。 その後3年間にわたり、連合国空軍は第三帝国中の工場や都市を組織的に爆撃し、1945年までにドイツ都市部の大半が瓦礫に帰しました。1942年後半と1943年前半には、連合国軍が北アフリカで連続した重要な軍事的勝利を治めました。 フランス軍が連合国軍によるモロッコとアルジェリアの占領を防止できなかったことから、ドイツは1942年11月11日にヴィシー・フランスを占領しました。アフリカにいた枢軸国軍隊、合計約15万部隊は1943年5月に降伏しました。

東部では、1942年の夏、ヴォルガ川沿いにあったスターリングラード、そしてバクーの町とカフカス油田地帯の占領を目指し、ドイツと枢軸国はソ連における攻撃姿勢を一新しました。 1942年夏の終わり、ドイツの攻撃態勢はその両方の前線で立ち往生になり、11月にはソ連部隊がスターリングラードで反撃を行い、1943年2月2日にはドイツ第6軍がソ連に降伏しました。 ドイツは1943年7月にクルスクで、史上最大の戦車戦とされるもう1つの攻撃を仕掛けましたが、ソ連の軍隊はドイツの攻撃を鈍らせ、軍事的な優勢を引き継ぎました。ここが戦争中に再び放棄されることはありませんでした。

1943年7月、連合国はシチリアに上陸し、9月にはイタリア本土に侵攻しました。 イタリアのファシスト党の大審問会によってイタリア王国首相ベニート・ムッソリーニ(ヒトラーの同調者)が退陣させられると、引き継いだイタリア軍隊が9月8日に英米軍への降伏を交渉しました。イタリアに駐屯していたいドイツ軍は、イタリア半島の北半分を掌握し、抵抗を続けました。 イタリア軍当局によって逮捕されたムッソリーニは、9月にドイツ親衛隊員によって救出され、ドイツの監督と指示のもとに形式だけのネオファシスト政権を北イタリアに打ち立てました。 ドイツ軍は、1945年5月2日に降伏するまで北イタリアに駐留しました。

1944年
1944年6月6日(Dデイ)、大規模な軍事行動の一環として、15万人を超える連合国軍兵士がフランスに上陸し、フランスは8月末に解放されました。 1944年9月11日、ソ連軍が東部の国境を越えて1か月後に、最初の米国の軍隊が国境を越えてドイツに入りました。 12月半ば、ドイツはベルギーと北フランスにおいて「バルジの戦い」として知られる反撃に出ましたが失敗に終わりました。 連合国空軍は、アウシュビッツ収容所にあった工場など、ナチスの工場を攻撃しましたが、ガス室は標的とされませんでした。

1945年
ソ連は、1945年1月12日に攻撃を開始し、西ポーランドを解放し、ハンガリー(枢軸国)に降伏を強要しました。 1945年2月半ばになると、連合国はドイツの都市ドレスデンを爆撃し、約3万5,000人の市民が殺されました。 米国軍は1945年3月7日にライン川を渡りました。1945年4月16日に行われたソ連最後の攻撃により、ソ連軍はドイツの首都ベルリンの包囲に成功しました。 ソ連軍は総統官邸を目指して戦闘を続けましたが、ヒトラーは1945年4月30日に自殺しました。1945年5月7日、ドイツはフランスのランスで西側連合国に、そして5月9日にはベルリンでソ連軍に無条件降伏しました。 その8月、米国が日本の広島と長崎に原爆を投下し、12万人の市民を殺してから間もなく、太平洋戦争が終わりました。 日本は、9月2日に正式に降伏しました。

第二次世界大戦によって、世界中で推計5,500万人が死亡しました。 史上最大、そして最も破壊的な紛争でした。

その他の書籍

Berthon, Simon, and Joanna Potts. Warlords: An Extraordinary Re-Creation of World War II Through the Eyes and Minds of Hitler, Churchill, Roosevelt, and Stalin. Cambridge, MA: Da Capo Press, 2006.

Bess, Michael. Choices Under Fire: Moral Dimensions of World War II. New York: A.A. Knopf, 2006.

Chickering, Roger, Stig Fo¨rster, and Bernd Greiner. A World at Total War: Global Conflict and the Politics of Destruction, 1937-1945. Washington, DC: German Historical Institute, 2005.

Plowright, John. The Causes, Course, and Outcomes of World War Two. England: Palgrave Macmillan, 2007.

Weinberg, Gerhard L. Hitler's Foreign Policy: The Road to World War II, 1933-1939. New York: Enigma, 2005.