サンシャイン号(旧ルーリファクス号)という名称のこのボートは、第二次世界大戦中、デンマーク人難民をドイツ占領下のデンマークから中立国のスウェーデンに移送するために使用されました。
ユダヤ教の安息日の儀式の際、毎週金曜日の夜に使用された、ポーランドで購入された一組の燭台。 1939年のドイツのポーランド侵攻を逃れてきたポーランド系ユダヤ人がこれらの燭台を携え、ビルナ地区まで逃げてきました。
ドイツ、ハンブルクのホテル・ライヒスホフの1939年のチラシ。 赤いラベルには、ホテル内のレストラン、バー、レセプションルームへのユダヤ人の立ち入りを禁止した文言が書かれています。 ホテル側はユダヤ人宿泊客に食事を客室内でとるように要求していました。…
米国国立ホロコースト記念博物館からの委託により、ポーランドのルブリン郊外にあるマイダネク絶滅強制収容所のガス室のドアを溶かして作った鋳物。 マイダネクは強制収容所、強制労働収容所、絶滅収容所として使われました。 マイダネクのそれぞれのガス室には金属製の密閉ドアが備え付けられ、ガスを室内に注入する前にボルトで固定されました。…
オーストリアのマウトハウゼン記念館から米国国立ホロコースト記念博物館に寄贈された190個の御影石の一部です。 ナチスは、1938年、放棄された採石場の近くにマウトハウゼン強制収容所を作りました。 囚人たちは180段を超える階段を上って御影石を運搬しなければなりませんでした。 小さなものでも1つ14〜20kgもあり、 大きなものは34kgを超えました。…
この家庭用聖書はアンドレ・トロクメ牧師のもので、説教に備えた彼の注釈が記載されています。 彼は、フランスのル・シャンボン・シュール・リニョンのプロテスタントの牧師でした。 戦時中、彼と町の住民はユダヤ人(特にユダヤ人の子供たち)と他の人をドイツ人から守りました。 これにより、約5,000人のユダヤ人を含む、数千人の難民が救われました。…
ヨーナ・ヴィゴスカ・ディックマンは、1944年11月、SS(ナチス親衛隊)によってアウシュビッツからドイツ、フライブルクの飛行機工場に強制労働のために移送された後、アルミニウム片とのこぎりの一部を使ってこのジャックナイフを作りました。彼女はこのナイフで、毎日支給されるパンを半分に切って少しずつ食べていました。
ヨーナ・ヴィゴスカ・ディックマンは、1944年11月、SS(ナチス親衛隊)によってアウシュビッツからドイツ、フライブルクの飛行機工場に強制労働のために移送された後、飛行機の部品からアルミニウムの櫛を作りました。彼女は、アウシュビッツで剃られた髪が伸び始めると、この櫛で髪をとかしました。
このコットンタフタ製のスカートは1920年代まで遡り、 ドイツのフランクフルトで生まれ、戦前までドイツに在住していたあるロマ(ジプシー)の女性の持ち物です。 彼女はナチスに捕らえられ、アウシュビッツ、ラーフェンスブリュック、マウトハウゼン、ベルゲン・ベルゼンの収容所に入れられました。…
ナチスドイツでは、公共の場所(公園、劇場、映画館、レストランなど)に、このようなユダヤ人を排除する標識が掲げられました。 この標識にはドイツ語で、 「ユダヤ人お断り」と書かれています。
1936年、ドイツのニュルンベルクで出版された反ユダヤ主義的な児童書。 ドイツ語のタイトルを訳すと、「荒野の狐とユダヤ人の誓約を信じることはできない: 老若男女のための絵本」となります。 表紙には、荒野の狐と宣誓をするユダヤ人の戯画が描かれています。
ニュルンベルク国際軍事裁判被告リストの1ページ目。IMTで配布された謄写版印刷プログラムの記載内容。このページには、へルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、アルフレート・ローゼンベルクについて、各々に関する簡潔なバイオグラフィーとともに記載されています。
ニュルンベルク国際軍事裁判被告リストの3ページ目。IMTで配布された謄写版印刷プログラムの記載内容。このページには、ユリウス・シュトライヒャー、ヴィルヘルム・カイテル、ヴァルター・フンク、ヒャルマル・シャハトについて、各々に関する簡潔なバイオグラフィーとともに記載されています。
ニュルンベルク国際軍事裁判被告リストの4ページ目。IMTで配布された謄写版印刷プログラムの記載内容。このページには、ヒャルマル・シャハト、カール・デーニッツ、バルドゥール・フォン・シーラッハ、フリッツ・ザウケルとアルベルト・シュペーアについて、各々の簡潔なバイオグラフィーとともに記載されています。
「水晶の夜」(1938年11月9日から10日にかけてオーストリア、およびチェコスロバキアのズデーテン地方を含むドイツ全土で起きた反ユダヤ主義暴動、「壊れたガラスの夜」)に損傷したトーラー(ユダヤ教の聖典)の巻物(1つはウィーンのシナゴーグのもの、もう1つはマールブルクのシナゴーグのもの)。…
刺繍が施された袋に入った1組の小箱(テフィリン)。 テフィリンとは、朝の礼拝の際に信仰深いユダヤ人が身につける儀礼用の品です。 ドイツのレーゲンスブルク近郊に埋葬された死の行進の犠牲者の遺体から見つかりました。
1945年4月、ソ連軍はザクセンハウゼン強制収容所を解放し、兵士が収容所内で死亡していた「エホバの証人」が携えていた旧約聖書と新約聖書のドイツ語版を見つけました。 この聖書はこの囚人の遺族の元に届けられました。
強制収容所で生き延びた人々は靴などの基本的な持ち物にさえ事欠いていました。 赤十字社は、ジェイコブ・ポラックが1945年の6月(または7月)にオランダに帰還した後、彼に米国陸軍のブーツを支給しました。
1939年頃、 あるユダヤ人がナチスに占領されたヨーロッパから日本に逃れるときに使用していたスーツケース。 このスーツケースには、モスクワのホテルのステッカー(左上)、日本郵船のステッカー(中上)、日本国内の6軒のホテルのステッカーなど、さまざまな滞在地のステッカーが貼られています。 [USHMM特別展「避難と救済」より。]
ユダヤ人や、標的になったその他の集団に対する迫害は、1933 年にナチスが政権の座に就いた時点でドイツ政府の政策となっていました。しかし、ドイツによる 1939 年 9 月 1 日のポーランド侵攻の後、ナチスの政策をより極端なものにさせる機会や気運をもたらしたのは、戦争に他なりません。 第二次世界大戦の開戦から 80…
モルデチャイ・ゲビルティグは、1877年にポーランドのクラクフに生まれたイディッシュの民俗詩人であり、ソングライターでもありました。 1936年にポーランドの町、プシティクのポグロムの後、彼は「Undzer shtetl brent!(我らの町が燃えゆく)」を書きました。…
モルデチャイ・ゲビルチグは、1877年にポーランドのクラクフに生まれたイディッシュの民俗詩人であり、ソングライターでもありました。 1942年、ゲビルチグはクラクフゲットーに監禁されました。「春なのに」を書いたのは1942年4月でした。この歌詞は、ゲットーの生活の荒涼と絶望感を描いています。
デミャニュク裁判中にジョン・デミャニュクに質問をする主任弁護士マーク・オコーナー(立っている人物)。1987年2月16日、イスラエル、エルサレム。
ドイツにより蜂起が鎮圧された後のワルシャワゲットー。SS中将ユルゲン・シュトロープの報告書の写真より。右には、強制移送のためゲットーから移動させられるユダヤ人が見える。1943年4月~5月、ポーランド、ワルシャワ。
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