ラウル・ワレンバーグのパスポート写真。1944年6月、スウェーデン。
拡大して表示ハンガリー系ユダヤ人リリー・カッツに発行されたスウェーデンの「保護証明書」。この書類はスウェーデン人外交官ラウル・ワレンバーグ(左下)が仮調印した。1944年8月25日、ハンガリー、ブタペスト。
拡大して表示アグネスは1939年、スイスに留学してフランス語を学んでいました。 1940年にブダペストに戻りましたが、1944年のドイツ軍によるハンガリー占領後、スウェーデン大使館に保護されました。 その後、ブダペストのユダヤ人を救うための活動をしていたスウェーデン外交官ラウル・ワレンバーグのもとで、彼女は保護証明書(Schutzpaesse)の配布などの仕事を始めました。 ソ連軍がブダペストに侵攻したとき、アグネスはルーマニアに行こうと決心しました。 戦後、彼女はスウェーデンとオーストラリアに移り住んだ後、米国に渡りました。
拡大して表示アニエスは10代のころ、ハンガリーの改革派教会が運営するブダペストの有名なバールマダス私立学校に通っていました。アニエスは学校でただ1人のユダヤ人でしたが、両親は娘には優れた教育を与えることが重要だと考えていました。アニエスの父親は布地の輸入業者で、娘に独立心を植えつけようとしたのです。
1933年〜1939年: 1936年、私は、イタリアのマリア・モンテッソーリの下で教育技術を学び、免状をもらいましたので、教職につくことができるようになりました。私は、フランス語が上達するように、1939年スイスに行きました。ジュネーブ湖で友達と泳いでいた9月9日、シオニスト会議に参加していたポーランド系ユダヤ人達に会いました。突然、ドイツがポーランドを制圧したというニュースが飛び込んできたのです。驚愕したポーランド人達は水着姿のまま、家族と連絡を取ろうとしました。
1940年〜1944年: 1944年、ブダペストで、私はスウェーデン人の外交官、ラウル・ワレンバーグの下でユダヤ人を救うために働いていました。その年の12月、ファシスト達は、ユダヤ人たちをドナウ河の土手で銃殺するよう命令を出しました。ユダヤ人達は3人一組で縛られ、真ん中にいる者が撃たれ、そのまま3人とも河へ落ちて行くのです。ワレンバーグは自分の職員に「泳げる者がいるか?」と訊ね、私は自分が泳げると答えました。私達は水辺に駆けつけました。そしてグループが水に落ちたとき、私たちも氷のような河に飛び込んだのです。私達は50人の人たちを助けました。その後、私は病気になり、1日半もの間意識がありませんでした。
戦争後、アニエスはスウェーデンおよびオーストラリアに行き、1951年、米国に移住しました。アニエスは、その後、ワレンバーグと彼の功績についての発表や講演に身をささげました。
拡大して表示ブダペストのスウェーデン大使館に赴任したスウェーデン人外交官ラウル・ワレンバーグは、ホロコーストの際に最も大規模な救援活動を指揮し、成功を収めました。 彼は米国戦争難民局(WRB)および世界ユダヤ人会議と連携して、何万人ものハンガリー系ユダヤ人がアウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所に移送されないように保護しました。 他の中立国の外交官も救援活動に加わりました。 スイス人外交官のカール・ルッツは、移住証明書を発行し、約50,000人のユダヤ人をスイスの保護下に置きました。 イタリア人実業家のジョルジョ・ペルラスカはスペイン人外交官を装い、ユダヤ人にスペインの偽造ビザを発行しました。 このような救援活動により、解放時には100,000人を超えるユダヤ人がブダペストに残っていました。
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