Jews at the killing site outside of Kamenets-Podolsk.

ホロコーストにおけるユダヤ人の大量銃殺

1941 年の夏、ドイツはソ連への侵攻に続いて、ソ連軍から奪った領土で、老若男女を問わず、ユダヤ人の大量射殺を実行しました。この殺戮行為は、ヨーロッパ全土のユダヤ人の大量殺戮を通じた、「ユダヤ人問題の最終的解決」の一部でもありました。

主要事実

  • 1

    ナチス・ドイツは、かつてない規模の民間人の大量射殺を実行しました。

  • 2

    大量射殺は、占領した東ヨーロッパ(東欧)の地において、現地住民の目の前で白昼堂々と行われることもしばしばでした。

  • 3

    ホロコーストの犠牲者 600 万人のうち、約 3 分の 1 がこの大量射殺で命を奪われました。

German soldiers in the Soviet Union during a December 1943 Soviet offensive on the eastern front.

1943年12月、ソ連軍の東部前線での攻撃時のドイツ兵。 ドイツ軍は1941年6月にソ連領に侵攻しましたが、スターリングラードの戦いの後、ソ連軍の反撃に遭いました。 1943年12月16日。

クレジット:
  • US Holocaust Memorial Museum

ナチスドイツとその同盟国や協力者は、ソ連軍から奪取した領土でユダヤ人を大量に銃殺しました。この残虐な行為は、銃弾によるホロコーストと呼ばれることもあります。最大で200 万人ものユダヤ人が、この大量銃殺とそれに付随する集団虐殺のなかで命を落としました。 

1939 年から 1940 年にかけて、ドイツとソ連がポーランドを分割した後、ソ連はバルト三国および戦前のポーランドやルーマニアのうちユダヤ人口の多かった地域を併合しました。1941 年 6 月のドイツ軍によるソ連侵攻(いわゆる「バルバロッサ作戦」)の後、ドイツの部隊とその同盟国の部隊や協力者が、ソ連軍から奪取した領土で、繰り返し大規模な銃殺を実行しました。ドイツの部隊が東ヨーロッパ地域を急速に進軍するなか、大量銃殺は、エイシシュキ(エイシショク)などの小さな町やカームヤネツィ=ポジーリシクィイなどの中規模都市、そしてキーウ(キエフ)などの大都市においても行われました。ナチスドイツとその同盟国が奪取した領土に置いた文民統治機構により、残ったユダヤ人はゲットーに集められ、定期的に大量銃殺されました。 

ホロコーストの記憶や研究の多くは、ゲットー強制収容所絶滅収容所が果たした役割に焦点をあてるもので、これまで、 600 万人という犠牲者を考える上で大量射殺が果たした役割の重大さにはあまり関心が向けられてきませんでした。

大量射殺の始まりと激化(1941 年夏)

1941 年 6 月、ナチス・ドイツはソ連に侵攻を開始し、彼らにとっての人種的および思想的な敵対者とされた人々に対する「殲滅戦」(Vernichtungskrieg)を遂行するよう、ドイツ軍と警察当局に指示しました。ここで敵と見なされたのは共産主義者、ユダヤ人、ロマ族、その他のソ連の民間人などです。

侵攻後間もなく、ドイツの SS (親衛隊)や警察組織が現地のユダヤ人の大量射殺を実行し始めました。当初、標的になったのは、徴兵年齢にあるユダヤ人男性でした。ところが 1941 年 8 月までには、老若男女を問わずユダヤ人コミュニティ全体に銃口が向けられ始めました。これを機にナチスの反ユダヤ政策は激化し、遂には、ヨーロッパからのユダヤ人の一掃という計画、いわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」という極点に達したのです。 

ソ連軍から奪った領土で起こった大量射殺には、ドイツのさまざまな部隊が関与していました。とりわけ悪名高いのはアインザッツグルッペン(治安警察と SD(親衛隊諜報部) からなる特別任務部隊)ですが、アインザッツグルッペンはわずか 3,000 人で多様な任務をこなし、東部戦線全体のすぐ後方に配備されていました。他にも、治安警察の大隊、武装親衛隊の部隊、ドイツ国防軍の部隊などが数多くの虐殺を実行しました。銃によるホロコーストの遂行には、このような人員が不可欠でした。 

さらに、大量射殺を行ったのはドイツの部隊だけではありません。多くの場所では、SS や警察に手を貸した現地の補助部隊の人員が要でした。この補助部隊を構成していたのは現地の民間人、軍人、警察官などです。また、ドイツの同盟国であるルーマニア軍も、その占領・支配地域でユダヤ人の大量虐殺を行いました。

虐殺の手順

SS troops lead a group of Poles into the forest near Witaniow for execution

親衛隊の部隊は、死刑のためにウィタニオウの近くの森の中にポーランド人のグループを指示する。ポーランド、ウィタニオウ、1939年10月ー11月。

クレジット:
  • Instytut Pamieci Narodowej

大量射殺はいつも同じ過程を辿ったわけではありませんが、その手順には共通点がありました。大量射殺(ドイツ語で「Aktion(作戦)」と呼ばれた)においては、通常、はじめにドイツの部隊や現地の協力者が村や町、都市部のユダヤ人住民を集めます。そして彼らを、郊外のあらかじめ決めておいた場所に連れて行きます。次に、その住民たちに集団墓地にする穴を掘らせるか、あらかじめ集団墓地として用意しておいた場所に連れて行くのです。最後はドイツの部隊や現地の協力者の手で老若男を問わず、全員をその穴に撃ち落とすのです。

中には「Sardinenpackung(イワシ詰め)」と呼ばれ、相手を地面に寝かせて首の後ろや頭蓋骨を撃ちぬくという冒涜的な方法がとられることもありました。穴に並んだ死体の上に薄く土を被せ、その上に次の犠牲者を横たわるよう命じ、彼らをつづけて射殺しました。愛する人が目の前で殺される様子を見せられた犠牲者も少なくありません。

この虐殺行為は、現地住民の目の前で、白昼堂々と行われることもしばしばでした。

事が済んだ後、ドイツ人たちはこの集団墓地を意図的に隠ぺいしようとしました。現場のほとんどは何十年も気付かれなかったものもあれば、現在も場所がわかっていないものもあります。東ヨーロッパの全土に、発見ばかりか認知もされないままの集団墓地が数知れず残されているのです。 

大量殺戮の代替手段となったガストラック 

大量射殺では射手と護衛を何人も用意しなければならず、大量の銃や弾薬、輸送手段の確保も必要となりました。その効率の悪さと射手の精神面への影響を懸念して開発されたのが、エンジンから排出される一酸化炭素を、密閉された後部座席に送り込むホースが取り付けられた特殊なトラックです。ユダヤ人は密閉された状態の車両に詰め込まれると、窒息死させられ、車両で集団墓地にそのまま運ばれました。 

しかし、悪天候の中で悪路を走るのは困難で、燃料や装備品も不足していました。また、大人数をこの方法で殺害するには時間がかかるのも難点でした。それだけでなく、ドイツ側の人員が犠牲者の遺体を運び出したり、室内を掃除したりすることを嫌がりました。結局、ドイツ占領下のソ連領内では、ユダヤ人を殺害するのには大量射殺のほうが好まれていました。

1941 年の大規模な大量射殺

ドイツとその同盟国や協力者が行った大量射殺作戦による犠牲者数は、数百人や数千人規模ということもあれば、時には数万人に上ることもありました。一般的に規模の大きな虐殺のほうがよく知られています。これは犠牲者の数が多いことと、大規模な大量銃殺のほうが大きな町や都市の近くで行われたことによります。加害者たちは、この殺戮行為を秘密にして、現地住民から隠しておくことができませんでした。 

バルバロッサ作戦の最初の数か月間に行われた最大規模の大量射殺の中には、カメニェツ=ポドルスク(カームヤネツィポジーリシクィイ)とバビン・ヤール(バビ・ヤール)での虐殺がありました。

Einsatzgruppen massacres in eastern Europe
クレジット:
  • US Holocaust Memorial Museum

 

カメニェツ=ポドルスク(カームヤネツィポジーリシクィイ)

1941 年 8 月 26 日から 28 日にかけて、ドイツ占領下ウクライナのカームヤネツィ・ポジーリシクィイで、ウクライナ人協力者の支援を受けたドイツの SS と警察部隊によって 、23,600 人のユダヤ人が殺害されました。現地のユダヤ人だけでなく、ハンガリー領からドイツ占領地に強制移送されてきたユダヤ人も犠牲になりました。 

バビン・ヤール(バビ・ヤール)

1941 年 9 月 29 日から 30 日にかけて、SS とドイツ警察部隊、その協力者らによって、キエフに残っていたユダヤ人の大部分が、バビン・ヤール(バビ・ヤール)で殺害されました。当時、バビン・ヤールは街の外に位置する渓谷でした。アインザッツグルッペンの報告書によると、この 2 日間で 33,771 人のユダヤ人が虐殺されています。この大虐殺の後、バビン・ヤールの渓谷は、 1941 年から 1943 年にかけて、ドイツ軍が主に非ユダヤ系の数万人の命を奪う殺戮現場となりました。バビン・ヤールでは、約 10 万人もの人が殺害されたと言われています。

殺戮現場複数の虐殺が行われた場所

ソ連から奪った領土のいくつかの都市の近くに、ドイツ人は処刑場を作り虐殺を繰り返していました。それぞれの現場で、ユダヤ人を中心に何万人もの人々が殺害されました。中でも悪名高いのは以下の場所です。  

  • コヴノ(カウナス)の第 9 要塞
  • リガのルムブラとビケルニエキの森
  • ヴィリナ(ヴィリニュス)近郊のポナリ
  • ミンスク近郊のマリー・トロスティネッツ

これらの殺戮現場では、ドイツ人と現地の協力者によって、その土地のユダヤ人が何万人も殺害されました。また、1941 年と 1942 年には、中央ヨーロッパのドイツ、オーストリア、チェコのユダヤ人が、何万人もこうした殺害場所に強制移動させられました。 

収穫祭作戦

ホロコースト最大の大量射殺作戦は、ソ連から接収した領土内ではなく、総督府(Generalgouvernement;ドイツが併合しなかったドイツ占領下ポーランドの一部)で行われました。ドイツはこの作戦を「収穫祭作戦」(アクチオン・エルンテフェスト)と呼びました。収穫祭作戦の目的は、総督府に残っているユダヤ人を殺害することにありました。大量射殺は、 1943 年 11 月 3 日から 4 日にかけて、ルブリン/マイダネク強制収容所やトラブニキ、ポニャトヴァの強制労働収容所で決行されました。ナチス親衛部隊によって、これらの収容所を含む各地からユダヤ人の収容者が集められ、このために用意された穴の中で射殺されました。 

この 2 日間の作戦で、約 42,000 人のユダヤ人の命が奪われました。総督府内で生活していた約 200 万人のユダヤ人の殺害を企図した「ラインハルト作戦」は、これで幕を閉じました。 

大量射殺で殺害された人数

フリーマの家族はゲットーに収容されていましたが、父親はナチに通訳として使われていました。 父親はやがて死にました。 フリーマは母親と姉と共にユダヤ人でないふりをして、ドイツ軍の移動虐殺部隊の殺戮を逃れました。 しかし後に見つかり、捕らわれました。 そこでもまた、母親が逃げる方法を考え出しました。 フリーマの母と姉はルーマニアに逃亡し、フリーマは隠れ家を探していましたが、母親が手はずをつけ、フリーマもやがて逃亡できました。 ルーマニアで3人は再会し、解放されました。

クレジット:
  • US Holocaust Memorial Museum Collection

 

ドイツは正確な人数を把握しておらず、終戦前に作戦に関する報告書もほぼすべて破棄していたため、大量射殺によって命を奪われたホロコーストの犠牲者数を正確に特定することは不可能です。 

いくつかの入手可能な戦時中の報告書や戦前・戦後のユダヤ人口に関する統計による研究から、ドイツ軍とその同盟国、協力者たちが、がソ連軍から奪った領土で殺害したユダヤ人の数は、大量射殺やガストラックを合わせて、 200 万人に上ると推定されています。

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