ニュルンベルクでのナチ党大会に結集した群衆。1935年、ドイツ、ニュルンベルク。
拡大して表示ニュルンベルク法(帝国市民法およびドイツ人の血統と名誉を守る法律)の例。1935年9月15日、ドイツ。
拡大して表示ドイツ系ユダヤ人の夫婦に交付されたパスポート。ユダヤ人を表す「J」がカードに押されている。1938年12月29日、ドイツ、カールスルーエ。
拡大して表示ドイツ、ハンブルクのホテル・ライヒスホフの1939年のチラシ。 赤いラベルには、ホテル内のレストラン、バー、レセプションルームへのユダヤ人の立ち入りを禁止した文言が書かれています。 ホテル側はユダヤ人宿泊客に食事を客室内でとるように要求していました。 1935年のニュルンベルク法の発効後、ユダヤ人は、ドイツ国内の公共の場所に立ち入ることを組織的に禁止されました。
拡大して表示ガブリエルは、ドイツの首都ベルリンに住むユダヤ人両親の一人娘でした。祖母は薬局と薬品工場を所有し、祖父もそこで働いていました。
1933~39年:1938年、ナチスの党員は、薬局と工場を「アーリア人」であるドイツ人に僅かな金額で売るよう祖父に強要しました。その後、父はユダヤ人にとってより安全なアムステルダムに移住するべきだと決心しました。当時5歳だった私は、ベルリンに残りたいと思っていました。なぜ玩具や友人から離れねばならないのか、理解できなかったのです。アムステルダムで小学校が始まると、まったく新しい言葉を学ばねばなりませんでしたが、すぐに友達もできるようになりました。
1940~44年:1940年5月、ドイツ軍がオランダに侵攻しました。ドイツ軍の一団が街を行進する様子が怖かったことを覚えています。学校ではユダヤ人の黄色い星を身に着けねばならず、キリスト教徒の友達と遊べなくなりました。9歳の時、私たち家族はオランダ東部のヴェステルボルク収容所に入れられました。そこでは、両親は昼間働き、私は物を盗んで食べ物と交換していました。1年後、私たちはテレージエンシュタットのゲットーに送られました。私はゲットーで常に食べ物に餓えていました。
当時12歳のガブリエルと両親は、1945年にテレージエンシュタットから解放されました。同年6月、シルテン一家はアムステルダムに戻り、そこで暮らし始めました。
拡大して表示ヘニーの両親は、彼女の父親がロシアから移住してきて直ぐに出会いました。ヘニーは、このユダヤ人の両親の3人の子供の長女でした。フランクフルトは、商業、銀行業、産業、および芸術の重要な中心都市でした。
1933年〜1939年: ナチスが権力を握るようになると、ユダヤ人、ロマ族(ジプシー)、同性愛者、障害者、左翼政治家を含む数多くの「好ましくない」グループの迫害が始まりました。1938年以降、ユダヤ人を識別する方法の1つとして、ナチスの条例により、すべてのユダヤ人女性は公文書で名前に「サラ」を付け加えなければならないと定められました。24歳だったヘニーは当時、商店のアシスタントとして働いており、フランクフルトで家族と同居していました。
1940年〜1944年: 1940年初期、ヘニーはフランクフルトで逮捕され、ラーフェンスブリュック女性強制収容所に移送されました。囚人として撮影された写真の裏には、「ジェニー(sic)・サラ・シャーマン、フランクフルト・アム・マインで1912年2月19日に出生。フランクフルト・アム・マインで働く未婚の店員。勝手気ままな同性愛女性、そのような [同性愛女性向けの] バーのみ訪問。「サラ」という名前を拒否、国籍のないユダヤ人。」と書かれていました。
ヘニーは、絶滅に選別された数多くのラーフェンスブリュック強制収容所囚人の1人となりました。1942年、ヘニーはベルンブルグ殺害施設でガスで殺害されました。
拡大して表示アルトゥルは、ドイツで一番大きな港町ハンブルクのユダヤ人の家に生まれました。父親はゴムの印鑑を作る小さいな工場を経営していました。1930年代の初め、ハンブルクにはドイツでも4番目に大きなユダヤ人のコミュニティがあり、さまざまな社会や文化組織がありました。
1933年〜1939年: 1935年までには、ハンブルクのユダヤ人の状態はかなり悪くなっていました。私の家族は別の場所に引越し、1938年には、ナチスが父の商売を没収してしまいました。祭日には、たくさんのドイツ人が、愛国心を表現するために赤、白、黒のナチスの旗を掲げました。妹と私は自分たちのナチスの旗を作り、窓からぶら下げました。でも両親はひどく怒って、それを巻き上げてしまいました。私達は、なぜ自分の国を応援してはいけないのかわかりませんでした。
1940年〜1944年: 1941年、私は、1,300キロほど東にあるソ連のミンスクのゲットーに移送されました。ゲットーはとても大きく、8万5,000人の人たちがいました。私はその近くにあったドイツ軍の基地で燃料になる泥炭を切り出す作業をしていました。そこの兵士達はナチスではなく、親衛隊のように捕虜を虐待したりはしませんでした。作業場への行き帰り、私は見張り番の自転車を押してあげました。食べ物が少なかったので、ある日見張り番は、ジャガイモを盗むため私をジャガイモ置き場に入れて鍵をかけました。そして、私にも少し分けてくれました。私達は、彼の自転車でジャガイモを収容所にこっそりと持ち込みました。
ミンスクに2年いた後、アルトゥルは、ポーランドのさまざまな収容所に移送され、飛行機の溶接作業に従事しました。1945年、ダッハウ強制収容所への強行軍の途中で解放されました。
拡大して表示強化され続ける反ユダヤ主義政策と1938年の「水晶の夜」(「壊れたガラスの夜」)のポグロムの渦中にあったヨハンナの家族は、ドイツを去ることを決意しました。アルバニア行きのビザを取得すると、イタリアに入り、1939年にアルバニアに出帆しました。彼らはイタリア占領下のアルバニアに留まりましたが、1943年にイタリアが降伏するとドイツ占領下となりました。この家族は、1944年12月のドイツ軍とアルバニアのパルチザンの間の戦いの後、解放されました。
拡大して表示エドワードは、ハンブルクでユダヤ人家族のもとに生まれました。1935年、ニュルンベルク法により、ユダヤ人ではないドイツ人とユダヤ人との結婚や婚外交渉が禁じられました。このとき、エドワードは20歳台半ばでしたが、ユダヤ人以外の女性と付き合っているとして逮捕されました。常習犯とみなされたエドワードは、その後、ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所に送られ、建設プロジェクトでの重労働を強いられました。エドワードは収監される直前に結婚し、妻はドイツ国外への移住の準備をしました。1938年9月、釈放されたエドワードはドイツを離れました。アムステルダム(オランダ)の親戚のもとで過ごし、後に米国に移住しました。
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