Jews carrying their possessions during deportation to the Chelmno killing center. [LCID: 10047]

絶滅収容所への移送

ナチス政権は、第二次世界大戦の枠組みの中で、東ヨーロッパにおける民族構成を強制的に再編成する手段の1つとして鉄道を利用しました。1941年、ナチスの高官たちにより「最終的解決」、すなわちヨーロッパユダヤ人の大量虐殺が決定されました。ドイツ当局は大陸を横断する鉄道を使用し、ユダヤ人を家から追いたて、主に東ヨーロッパに向けて移送という名の追放を実行しました。専用に建設された処刑施設で組織的なユダヤ人の殺戮が開始されると、ナチスドイツはこれらの施設へ向けてユダヤ人を鉄道で送り込みました。鉄道が利用できない場合や距離が短い場合は、トラックを使用したり徒歩で向かわせたりすることもありました。

当局が鉄道による組織した大量移送

1942年1月20日にベルリン郊外で開催されたヴァンゼー会議で、親衛隊 、ナチス党およびドイツ州当局が一同に会し、ドイツ占領下のポーランドですでに稼働を始め、さらなる建設が進められていた抹殺施設(「絶滅収容所」)へヨーロッパのユダヤ人を移送するための協調体制が確立されました。会議の参加者たちは、「ユダヤ人問題の最終的解決」により、ドイツの支配が及んでいない地域(アイルランド、スウェーデン、トルコ、英国など)の居住者を含むおよそ1100万人のヨーロッパユダヤ人を移送し虐殺することを計画しました。

この大規模な移送には、国家保安本部(RSHA)、秩序警察の本部、運輸省、外務省を含む多くのドイツ政府省庁との連携が必要でした。RSHAあるいは地域の親衛隊、警察幹部は共同して移送の指揮を執りました。地域の予備警察や占領地域の協力者により支持されていた秩序警察も、ユダヤ人を一斉に逮捕し絶滅収容所へと移送しました。親衛隊中佐アドルフ アイヒマンが率いるRSHAの IV B 4部に協力した運輸省が鉄道スケジュールを調整しました。外務省は、ドイツと同盟を結んでいた枢軸国に対し、そのユダヤ人市民を引き渡すように交渉しました。

ナチスドイツはその意図を隠ぺいし、ユダヤ人の移送は「東部の」労働収容所への「再移住」であると表現していました。が、実際は「東部」への「再移住」とは絶滅収容所への移送および大量虐殺を意味していました。

列車の内部

ドイツ鉄道局は移送に貨車と客車の両方を用いました。移送中のユダヤ人には、たとえ他の列車が行き過ぎるのを何日も線路で待たなくてはならなくても、食物や水などは一切与えられませんでした。密閉された貨車にぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々は、夏のすさまじい暑さや冬の氷点下にも、なす術がありませんでした。バケツ以外には、トイレもありませんでした。強制移送という屈辱に加えて、糞尿の悪臭が移送者を苦しめました。食物も水も得られない中、多くの移送者が目的地に到着するまでに命を落としました。武装した警察が警備として移送に同行していましたが、彼らは逃走を試みた者はすべて銃撃するよう命じられていました。

1941年12月から1942年7月までに、親衛隊と警察によりドイツ占領下のポーランドに5つの絶滅収容所が建設されました。それは、ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ 2(トレブリンカ 1 はユダヤ人強制労働収容所)とアウシュビッツ第 2 収容所とも呼ばれるアウシュビッツ・ビルケナウでした。ポーランド総督府ルブリン地区(ドイツ占領下のポーランドにおいてこの地域はドイツに直接併合されておらず、東プロイセンの一部、あるいはドイツ占領下のソ連に組み込まれていた)の親衛隊と警察当局は、「ラインハルト作戦」により、地域のユダヤ人をベウジェツ、ソビボル、トレブリンカへ移送する計画を遂行しました。

犠牲者

ベウジェツの主な犠牲者はポーランド南部及び南東部出身のユダヤ人でしたが、1941年10月から1942年晩夏の間には、いわゆる「Greater German Reich(大ゲルマン帝国)」(ドイツ、オーストリア、ズデーテン地方、ボヘミア・モラビア保護領)と呼ばれる地域からもユダヤ人がルブリン地区へ移送されてきました。ソビボルへ移送されたユダヤ人のほとんどがルブリン・ゲットーに居住していた人々でした。しかし、1943年春から夏にかけて、フランスやオランダのユダヤ人もソビボルに移送されました。また、1943年夏の終わりには、ベラルーシおよびリトアニアのゲットーからも小数のソ連系ユダヤ人が移送されました。ドイツ当局により、ポーランド総督府領のワルシャワやラドム地区、ビャウィストク行政区域のユダヤ人はトレブリンカ2へ移送され、そこで親衛隊や警察により殺害されました。ロッツ・ゲットーのユダヤ人およびロマ、シンティ(ジピシー)は、1942年1月から1943年春の間、そして1944年初夏にヘウムノへと移送されました。

1943年と1944年の両年、アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所はドイツによるヨーロッパユダヤ人絶滅計画における重要な役割を果たしました。1943年の晩冬から、ヨーロッパにおけるドイツ占領地域のほぼすべて(北はノルウェーから南はトルコ南岸にほど近いギリシャのロドス島まで、西はピレネー山脈のフランス側斜面から東はドイツ占領下のポーランドおよびバルト三国まで)の国々から、ユダヤ人を乗せた列車が定期的にアウシュヴィッツ・ビルケナウに到着するようになりました。ルブリン近郊のもう1つの収容所、マイダネクは特定のユダヤ人を始め非ユダヤ人捕虜をガスやその他の方法で殺害するための施設でした。

5つの絶滅収容所では、合計300万人近いユダヤ人がナチスドイツにより殺害されました。

西ヨーロッパおよび北ヨーロッパ

ドイツ当局や地元の協力者により、西ヨーロッパのユダヤ人はフランスのドランシーやオランダのヴェステルボルク、ベルギーのメヘレンなどの通過収容所を経て強制移送されました。フランスから移送されたおよそ75,000のユダヤ人のうち、65,000人以上がドランシーからアウシュヴィッツ・ビルケナウへ、およそ2,000人がソビボルに移送されました。ナチスドイツによりオランダ(そのほとんどがヴェステルボルク)から移送された100,000人以上のユダヤ人は、約60,000人がアウシュヴィッツへ、34,000人以上がソビボルへと送り込まれました。1942年8月から1944年7月までに、28台の列車が25,000人以上のユダヤ人をベルギーからメヘレンを経てアウシュヴィッツ・ビルケナウへと移送しました。

1942年秋には、ナチスドイツはおよそ770人のノルウェー系ユダヤ人を逮捕して船や列車に乗せ、アウシュヴィッツへ移送しました。1943年9月、デンマーク国内のレジスタンスによりユダヤ人の一斉検挙が失敗し、デンマーク系ユダヤ人の強制移送計画は未遂に終わりました。そして大量のデンマーク系ユダヤ人が中立国であるスウェーデンへ避難しました。

南ヨーロッパ

ナチスドイツにより、ギリシャ、イタリア、クロアチアに住むユダヤ人が強制移送されました。1943年3月から8月の間に、親衛隊および警察当局は40,000人以上のユダヤ人をギリシャ北部のサロニカからアウシュヴィッツ・ビルケナウへ移送しましたが、ほとんどの人は到着と同時にガス室で殺害されました。1943年9月、ナチスドイツはイタリア北部を掌握し、およそ8,000人のユダヤ人をほぼ全員アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送しました。クロアチアと枢軸関係にあったドイツ当局は、7,000人のクロアチア系ユダヤ人を収監し、アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送しました。

ブルガリアの憲兵や軍隊は、ブルガリア占領下のマケドニア(旧ユーゴスラビアの一部)に住むおよそ7,000人のユダヤ人を逮捕し、スコピエの通過収容所を経て移送しました。ブルガリア当局は、ブルガリア占領下トラキアのユダヤ人住民およそ4,000人をブルガリア内の2か所の集会所に集めドイツへと移送しました。ブルガリア全体で、11,000人以上のユダヤ人がドイツ管轄地域へ強制移送されました。これらのユダヤ人は、ナチスドイツによりトレブリンカ2へ移送され、ガス室で殺害されました。

中央ヨーロッパ

絶滅収容所の建設がまだ計画段階だった1941年10月、ドイツ当局はユダヤ人を大ゲルマン帝国から追放し始めました。1941年10月15日から1941年11月4日までの間、ドイツ当局は20,000人のユダヤ人をロッツ・ゲットーに移送しました。1941年11月8日から1942年10月にかけて、ドイツ当局はおよそ49,000人のユダヤ人を大ゲルマン帝国から国家弁務官統治下のオストラント(ドイツ領ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニア)のリガ、ミンスク、コヴノ、ラシクへ強制移送しました。移送されたユダヤ人の大多数は、国家弁務官統治下のオストラントに到着するとすぐに親衛隊および警察により銃殺されました。その他、1942年3月から10月の間に、約63,000人のドイツ系、オーストリア系、チェコ系ユダヤ人がワルシャワゲットーを始め、クラスニスタフやイズビツァなどの通過収容所ゲットーおよびソビボルの絶滅収容所など、ルブリン地区のさまざまな収容所に移送されました。ロッツおよびワルシャワゲットーのドイツ系ユダヤ人住民は、その後ポーランド系ユダヤ人とともにヘウムノ、トレブリンカ2に移送され、1944年にはアウシュヴィッツ・ビルケナウへ移送されました。

大ゲルマン帝国から直接アウシュヴィッツへ最初に移送されたユダヤ人は、1942年7月18日にウイーンから到着しました。さらに、大ゲルマン帝国に残っていた71,000人以上のユダヤ人が1942年10月下旬から1945年1月までの間にアウシュヴィッツ・ビルケナウへ送られました。ナチスドイツは、ドイツ、オーストリア、ボヘミア・モラビア保護領、西ヨーロッパの各地から高齢者や著名なユダヤ人をテレージエンシュタット・ゲットーへ移送しました。ここは、さらに東部への移送の通過収容所としても機能しており、その多くがアウシュヴィッツ・ビルケナウを最終目的地としていました。

1944年の5月から7月の間、ハンガリーの憲兵はドイツ治安警察部隊と協力して、440,000人近いユダヤ人をハンガリーから追放しました。その多くはアウシュヴィッツ・ビルケナウへ送られました。スロバキア当局の協力により、ドイツは50,000人以上のスロバキア系ユダヤ人をアウシュヴィッツ・ビルケナウやマイダネクの収容所に移送しました。スロバキア系ユダヤ人は、ビルケナウのガス室へ最初に送られた人々でした。1944年秋のスロバキア民衆蜂起の間にも、ドイツ親衛隊および警察は10,000人のスロバキア系ユダヤ人をアウシュヴィッツ・ビルケナウへ送りました。この移送が、絶滅収容所への最後の大規模移送となりました。

1942年3月から1943年11月の間に親衛隊と警察により強制移送されたユダヤ人はおよそ1,526,000人で、そのほとんどはラインハルト作戦による絶滅収容所(ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ)へ列車で移送されました。1941年12月8日から1943年3月まで、そしてまた1944年6月から7月にかけて、親衛隊および警察はおよそ156,000人のユダヤ人と数千人のロマとシンティをヘウムノの絶滅収容所へ列車、トラック、徒歩で移送しました。1942年3月から1944年12月の間には、ドイツ当局はおよそ1100万人のユダヤ人および23,000人のロマとシンティをアウシュヴィッツ・ビルケナウへ移送しました。その多くは列車で移送されました。ラインハルト作戦の絶滅収容所における生存者は500人足らずでした。ヘウムノへ移送されたユダヤ人で生き残れたのは、ほんの一握りだけでした。アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送されたユダヤ人では、到着時に強制労働に割り当てられたおよそ100,000人が生き残りました。