犠牲者の特定
ドイツ政府は1939年、ドイツ国内の全居住者を対象とした国勢調査を実施しました。調査員は、各居住者の年齢、性別、住所、職業、信仰、結婚暦を記録したほか、このとき初めて、居住者の人種も祖父母の代までさかのぼって記録しました。収集した情報は、何千人もの事務員によってパンチカードに記録されました。
パンチカードの分類と集計は、近代的なコンピュータの前身であるホレリス機器によって行われました。ホレリス機器は、ドイツ系米国人の技術者、ハーマン・ホレリスによって発明されたものであり、国勢調査データを処理する目的で、1800年代後半と1900年代前半にかけて米国および大半のヨーロッパ諸国によって使用されました。ドイツ人が使用したホレリス機器は、International Business Machines(IBM)の前身である米国企業のドイツ支社によって開発されたものです。
ナチスの高官、アドルフ・アイヒマンは、1939年の国勢調査で収集された情報に基づいて、ドイツに居住するすべてのユダヤ人に関する詳細な情報を含んだ、ユダヤ人登記簿を作成しました。この登記簿には、1938年と1939年にドイツ軍によって占領され、「ライヒ」(ドイツ帝国)の一部となった、オーストリアとチェコスロバキア西部のスデーテン地方のユダヤ人の名前も記録されました。ナチスの人種イデオロギーと人種政策がドイツの国境でとどまることはありませんでした。
他の状況では人のために役立つ技術や情報が、ナチス政権の下では犠牲者を特定する手段となったのです。
重要な日付
1933年4月7日
ユダヤ人が識別され、政府公職から追放される
アドルフ・ヒトラーが首相に任命されてから2か月後、1933年4月に法案が可決されたことを受け、ヒトラー内閣の下で粛清が開始されます。この法案には、社会のさまざまな方面からユダヤ人を追放することを規定した「アーリア条項」が含まれており、これによって、「アーリア人」の血を引いていることを示す文書の提示が政府の全職員に対して義務付けられます。誰をユダヤ人と見なすかが初めて法律上で定義され、ユダヤ人の親や祖父母を持つ職員が公職から追放されます。第一次世界大戦の前線で従軍したユダヤ人、または、直近の血縁関係にある家族が第一次世界大戦で戦死したユダヤ人は、当時この措置を免除されますが、1935年には同じく追放の対象になります。ユダヤ人の識別と追放を規定したこの「アーリア条項」は、間もなくドイツのあらゆる公職に適用されます。
1938年8月17日
ユダヤ人は「ユダヤ人らしい」名前を名乗ることを義務付けられる
ドイツ政府は、ドイツ国内のユダヤ人のうち、ユダヤ人であることをすぐに認識できない名前を持つすべてのユダヤ人に対し、「ユダヤ系」のミドルネーム(男性は「イスラエル」、女性は「サラ」)を付けるよう義務付けます。10月になると、ユダヤ人が持つすべての旅券がドイツ政府によって没収されます。ユダヤ人に対して新たに交付された旅券には、保有者がユダヤ人であることを示す「J」の字が刻印されます。
1941年9月19日
ユダヤ人を識別するバッジがドイツに導入される
ドイツ国内の6歳以上のユダヤ人は、前面に黒字で「Jude」(「ユダヤ人」を意味するドイツ語)と記された黄色い六芒星のバッジを、上着に縫い付けて常時着用することを義務付けられます。ドイツでユダヤ人を目で見て識別できるようになったのです。10月になると、ドイツからのユダヤ人の国外追放が開始されます。1942年3月、住居にも星型のシンボルを付けることがユダヤ人に対して義務付けられます。