Item 1 of 2
Items 1 through 1 of 2
Items 1 through 1 of 2
ホテル・ライヒスホフのチラシ
ドイツ、ハンブルクのホテル・ライヒスホフの1939年のチラシ。 赤いラベルには、ホテル内のレストラン、バー、レセプションルームへのユダヤ人の立ち入りを禁止した文言が書かれています。 ホテル側はユダヤ人宿泊客に食事を客室内でとるように要求していました。 1935年のニュルンベルク法の発効後、ユダヤ人は、ドイツ国内の公共の場所に立ち入ることを組織的に禁止されました。
ルート・ガブリエル・シルテン
ガブリエルは、ドイツの首都ベルリンに住むユダヤ人両親の一人娘でした。祖母は薬局と薬品工場を所有し、祖父もそこで働いていました。
1933~39年:1938年、ナチスの党員は、薬局と工場を「アーリア人」であるドイツ人に僅かな金額で売るよう祖父に強要しました。その後、父はユダヤ人にとってより安全なアムステルダムに移住するべきだと決心しました。当時5歳だった私は、ベルリンに残りたいと思っていました。なぜ玩具や友人から離れねばならないのか、理解できなかったのです。アムステルダムで小学校が始まると、まったく新しい言葉を学ばねばなりませんでしたが、すぐに友達もできるようになりました。
1940~44年:1940年5月、ドイツ軍がオランダに侵攻しました。ドイツ軍の一団が街を行進する様子が怖かったことを覚えています。学校ではユダヤ人の黄色い星を身に着けねばならず、キリスト教徒の友達と遊べなくなりました。9歳の時、私たち家族はオランダ東部のヴェステルボルク収容所に入れられました。そこでは、両親は昼間働き、私は物を盗んで食べ物と交換していました。1年後、私たちはテレージエンシュタットのゲットーに送られました。私はゲットーで常に食べ物に餓えていました。
当時12歳のガブリエルと両親は、1945年にテレージエンシュタットから解放されました。同年6月、シルテン一家はアムステルダムに戻り、そこで暮らし始めました。
ヘニー・シャーマン
ヘニーの両親は、彼女の父親がロシアから移住してきて直ぐに出会いました。ヘニーは、このユダヤ人の両親の3人の子供の長女でした。フランクフルトは、商業、銀行業、産業、および芸術の重要な中心都市でした。
1933年〜1939年: ナチスが権力を握るようになると、ユダヤ人、ロマ族(ジプシー)、同性愛者、障害者、左翼政治家を含む数多くの「好ましくない」グループの迫害が始まりました。1938年以降、ユダヤ人を識別する方法の1つとして、ナチスの条例により、すべてのユダヤ人女性は公文書で名前に「サラ」を付け加えなければならないと定められました。24歳だったヘニーは当時、商店のアシスタントとして働いており、フランクフルトで家族と同居していました。
1940年〜1944年: 1940年初期、ヘニーはフランクフルトで逮捕され、ラーフェンスブリュック女性強制収容所に移送されました。囚人として撮影された写真の裏には、「ジェニー(sic)・サラ・シャーマン、フランクフルト・アム・マインで1912年2月19日に出生。フランクフルト・アム・マインで働く未婚の店員。勝手気ままな同性愛女性、そのような [同性愛女性向けの] バーのみ訪問。「サラ」という名前を拒否、国籍のないユダヤ人。」と書かれていました。
ヘニーは、絶滅に選別された数多くのラーフェンスブリュック強制収容所囚人の1人となりました。1942年、ヘニーはベルンブルグ殺害施設でガスで殺害されました。
アルトゥル・メンケ
アルトゥルは、ドイツで一番大きな港町ハンブルクのユダヤ人の家に生まれました。父親はゴムの印鑑を作る小さいな工場を経営していました。1930年代の初め、ハンブルクにはドイツでも4番目に大きなユダヤ人のコミュニティがあり、さまざまな社会や文化組織がありました。
1933年〜1939年: 1935年までには、ハンブルクのユダヤ人の状態はかなり悪くなっていました。私の家族は別の場所に引越し、1938年には、ナチスが父の商売を没収してしまいました。祭日には、たくさんのドイツ人が、愛国心を表現するために赤、白、黒のナチスの旗を掲げました。妹と私は自分たちのナチスの旗を作り、窓からぶら下げました。でも両親はひどく怒って、それを巻き上げてしまいました。私達は、なぜ自分の国を応援してはいけないのかわかりませんでした。
1940年〜1944年: 1941年、私は、1,300キロほど東にあるソ連のミンスクのゲットーに移送されました。ゲットーはとても大きく、8万5,000人の人たちがいました。私はその近くにあったドイツ軍の基地で燃料になる泥炭を切り出す作業をしていました。そこの兵士達はナチスではなく、親衛隊のように捕虜を虐待したりはしませんでした。作業場への行き帰り、私は見張り番の自転車を押してあげました。食べ物が少なかったので、ある日見張り番は、ジャガイモを盗むため私をジャガイモ置き場に入れて鍵をかけました。そして、私にも少し分けてくれました。私達は、彼の自転車でジャガイモを収容所にこっそりと持ち込みました。
ミンスクに2年いた後、アルトゥルは、ポーランドのさまざまな収容所に移送され、飛行機の溶接作業に従事しました。1945年、ダッハウ強制収容所への強行軍の途中で解放されました。
Your browser does not support this video element. Please consider using a more recent web browser.
ヨハンナ・ゲレヒタ・ニューマン
強化され続ける反ユダヤ主義政策と1938年の「水晶の夜」(「壊れたガラスの夜」)のポグロムの渦中にあったヨハンナの家族は、ドイツを去ることを決意しました。アルバニア行きのビザを取得すると、イタリアに入り、1939年にアルバニアに出帆しました。彼らはイタリア占領下のアルバニアに留まりましたが、1943年にイタリアが降伏するとドイツ占領下となりました。この家族は、1944年12月のドイツ軍とアルバニアのパルチザンの間の戦いの後、解放されました。
Your browser does not support this video element. Please consider using a more recent web browser.
エドワード・アドラー
エドワードは、ハンブルクでユダヤ人家族のもとに生まれました。1935年、ニュルンベルク法により、ユダヤ人ではないドイツ人とユダヤ人との結婚や婚外交渉が禁じられました。このとき、エドワードは20歳台半ばでしたが、ユダヤ人以外の女性と付き合っているとして逮捕されました。常習犯とみなされたエドワードは、その後、ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所に送られ、建設プロジェクトでの重労働を強いられました。エドワードは収監される直前に結婚し、妻はドイツ国外への移住の準備をしました。1938年9月、釈放されたエドワードはドイツを離れました。アムステルダム(オランダ)の親戚のもとで過ごし、後に米国に移住しました。
1935年にニュルンベルクで開催された年次党大会で、ナチスの思想に流行する人種理論の多くを制度化した新しい法律が発表されました。この法律では、ドイツ在住ユダヤ人は帝国市民と見なされず、「ドイツ人またはその血族」との結婚や婚外交渉が禁じられました。この法律の補足条令の下、選挙権やほとんどの政治的な権利がユダヤ人から剥奪されました。
ニュルンベルク法として知られるこの法律は、「ユダヤ人」を特定の信仰を持つ者とは定めていません。代わりに、3人または4人の祖父母をユダヤ人に持つ者が「ユダヤ人」と定義されました。これは、自らがユダヤ人と認めているか、またはユダヤ教コミュニティーに属しているかは関係ありません。ユダヤ教の教えを長年実践してこなかった多くのドイツ人は、ナチスの恐怖に怯えました。キリスト教に改宗したユダヤ人の祖父母を持つ人々でさえもユダヤ人と見なされたのです。
ニュルンベルク法制定後、短い期間ですが、1936年にベルリンで開催されたオリンピック大会前と大会中の数週間、実際にナチス政権は反ユダヤ攻撃を控え、「ユダヤ人お断り」という一部の看板を公共の場から撤去することさえしました。ヒトラーは自国政府に対する国際批判の高まりによって、オリンピックが別の国で開催されることを避けたかったのです。そのような敗北は、ドイツの威信に深刻な打撃を与えることになったでしょう。
オリンピック大会後(ナチスはドイツ在住ユダヤ人の選手がオリンピックに参加することを許可しませんでした)、ナチスは再びドイツ在住ユダヤ人の迫害を強化しました。1937年から1938年にかけて、政府はユダヤ人に財産を登録させ、ユダヤ人の企業を「アーリア化」することで、ユダヤ人を貧困に追い詰めようとしました。これによりユダヤ人の労働者や管理職は解雇され、ほとんどのユダヤ人経営の企業は、ナチスの価格固定により破格の値段で買い取った非ユダヤ系のドイツ人が引き継ぎました。ユダヤ人の医師は非ユダヤ人を治療することを、ユダヤ人の弁護士は開業することをそれぞれ禁止されました。
ドイツ国内の人々と同様、ユダヤ人も身分証明書の所持を義務付けられましたが、政府はユダヤ人の身分証明書に特別の印を付けました。それは赤い「J」というスタンプです。さらに、ユダヤ人と見分けがつかない名前を持っている者には、男性の場合は「イスラエル」、女性の場合は「サラ」という新しいミドルネームが付け加えられました。このカードにより、警察が簡単にユダヤ人を見分けることができるようになりました。
重要な日付
1935年9月15日 ニュルンベルク法が制定される ナチスは年次党大会で新しい法律を発表します。その法律とは、ユダヤ人から帝国市民権を剥奪し、「ドイツ人またはその血族」との結婚や婚外交渉を禁じることです。「人種的不品行」は、発覚すると刑事事件になります。ニュルンベルク法は、3人または4人の祖父母をユダヤ人に持つ者を「ユダヤ人」と定めています。この結果、ユダヤ教から別の宗教に改宗した何千人ものユダヤ人も、ナチスの分類ではユダヤ人と見なされます。ユダヤ人を祖父母に持つローマカソリック教の司祭や修道女、プロテスタントの牧師でさえもこの中に含まれています。
1935年10月18日 新しい婚姻条件の導入 「ドイツ民族の遺伝衛生保護法」は、すべての婚姻予定者に対して、公衆衛生当局から婚姻適合証明書を取得することを義務付けます。そのような証明書は、「遺伝的疾患」や伝染病のある者、そしてニュルンベルク法に違反して結婚しようとした者に対して発行が拒否されます。
1935年11月14日 ニュルンベルク法を他民族にも適用拡大 ニュルンベルク法の最初の補足条令では、婚姻または婚外交渉の禁止対象が「人種的に疑わしい」子孫を生む人々にもその適用が拡大されます。その1週間後に内務大臣は、この条令が「ドイツ人またはその血族」とロマ族(ジプシー)、黒人、その子孫との間の関係にも適用されるという解釈を示します。