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ヨハン・ストシエ
ヨハンはオーストリアのケルンテン地方に住むカトリック教徒の家庭に生まれ、家族が持つ農場で育ちました。ヨハンは芝居が好きで、近くのザンクト・マルティンの演劇グループに所属していました。ここには、エホバの証人の集会所がありました。彼は1920年代後半にエホバの証人の信者となり、ザンクト・マルティン周辺で活発な布教活動を行いました。
1933年〜1939年:ヨハンは、1936年にオーストリア政府によってエホバの証人の宣教活動が禁止された後でも、活動を続けました。1938年3月にドイツがオーストリアを併合すると、エホバの証人を取り巻く状況が一層悪化しました。ヨハンは他の信者と同様に、ハイル・ヒトラー式の敬礼や、ヒトラーに忠誠を誓うことと軍隊に志願することを拒否しました。
1940年〜1944年:ヨハンは1940年4月にゲシュタポにより逮捕され、クラーゲンフルトの刑務所に投獄されました。彼は、ナチスによって最初にノイエンガンメ強制収容所に送られた後、ザクセンハウゼン強制収容所に移送されました。ザクセンハウゼンでは、エホバの証人の信仰を捨てることを強要されましたが、ヨハンは断固として拒否しました。彼は禁止されていたにもかかわらず、小さな聖書を隠し持っており、聖書を読むことで神の力はナチス政権の力よりも強力であるという信念を一層強く持つことができました。
ヨハンは1944年5月7日、ザクセンハウゼンで処刑されました。34歳でした。
ヨーセル・カラー
ヨーセルは、西ポーランドの産業都市、ウッチで信心深いユダヤ人一家のもと、6人の子供の1人として生まれました。彼の父親は実業家でした。6歳になり、彼はユダヤ人学校に通い始めました。彼の2人の姉は、午前中は公立学校に、午後からは神学校に通っていました。ヨーセルは、自由時間の大半を兄弟たちとサッカーをして過ごしていました。
1933年〜1939年: 私たちは、ウッチの北地区にある質素な家に住んでいました。ユダヤ人の昼間学校に通っていて、そこには多くの友人がいました。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを攻撃しました。7日後、私が裏庭でサッカーボールを蹴っていると、ドイツ軍兵士が、中には馬に乗っている兵士もいましたが、通りを行進していくのが突然目に飛び込んできました。その後、1発の銃声を聞きました。ドイツ軍はウッチを占領し、1939年11月9日にドイツ帝国に併合しました。
1940年〜1944年: 私と姉はパンを求めてパン屋の前で夜通し列に並んでいたのですが、朝、ポーランド人が私たちに気が付き「ユダヤ人!」と叫んだため、結局追い出されてしまいました。別のパン屋に行く途中、通りに3人のユダヤ人が吊るされているのを見ました。私たちは家まで走って戻りました。1943年の終わりに、私はゲットーからポーランドのヒュアステングルーベ強制労働収容所に移送されました。鉱山で、転がっている石炭を集めてワゴンに入れる仕事をしていました。私は背が低く、小さなトンネルに入れたため、うまくできました。食事は、朝はパン、夜にスープが出るだけでした。
1945年1月、ヨーセルは北ドイツに向かって行進を強いられた囚人のうちの1人でした。5月5日、彼は英国軍に解放され、最終的には、1947年に米国に移住しました。
ガブリエレ・ワイドナー
ガブリエレは、オランダ人の両親のもとに生まれた4人の子供の2番目でした。父親はセブンスデー・アドベンチスト教会の牧師でした。ガブリエレは、父が牧師を務めていた、スイスとの国境近くにあるフランスのコローニュで育ちました。ガブリエレは、16歳のときにセブンスデー・アドベンチスト教会で洗礼を受け、英国のロンドンの中等学校に通いました。
1933年〜1939年: ガブリエレは、セブンスデー・アドベンチスト教会でますます活動的になり、ついにパリにあるセブンスデー・アドベンチスト教会本部のフランス・ベルギー支部の書記になりました。西欧で学生時代を過ごした経験と外国語の知識が宗教活動に非常に役立ちました。1939年9月3日、ドイツがポーランドに侵攻して2日後、フランスがドイツに宣戦布告しました。
1940年〜1944年: ドイツ軍は1940年5月にフランスに侵攻し、ガブリエレは南へ逃れました。休戦後、ガブリエレはパリに戻り、教会での宗教活動を再開しました。1944年2月26日土曜日、ガブリエレは午前10時から始まった教会礼拝中にゲシュタポに逮捕されました。オランダ系ユダヤ人や政治亡命者を手助けした「オランダ・パリ」ネットワークの140人と共に、ガブリエレの関与が拷問を受けた仲間のメンバーによって証言されました。8月24日、ガブリエレはパリのフレスネ刑務所からドイツのラーフェンスブリュック収容所に移送されました。
ソ連軍による解放のわずか2日前の1945年2月17日、ガブリエレは栄養失調からラーフェンスブリュックの補助収容所であるケーニヒスベルクで亡くなりました。
ジュリアン・ノガの囚人服の上着
フロッセンビュルク強制収容所の青と灰色の縦縞の上着。 上着の左前部"P"は、ユダヤ人ではなくポーランド人の囚人が着用していたことを示します。 "P"はドイツ語の”Pole”「ポーランド人」を表します。 着用していたノガ氏本人から、米国国立ホロコースト記念博物館に寄贈されました。
ヨーロッパの主なナチス収容所、1944年1月
ドイツはドイツ占領下のヨーロッパ全域で、ドイツの支配に抵抗した人々や、劣った人種または政治的に好ましくないと判断した人々を逮捕しました。 ドイツの支配に抵抗したという理由で逮捕された人々のほとんどは、強制労働収容所や強制収容所に送られました。 ドイツはユダヤ人を占領下のヨーロッパ全域からポーランドの絶滅収容所に移送し、そこでユダヤ人は組織的に殺害されました。また、強制収容所にも移送し、そこでユダヤ人は強制労働をさせられました。 ヴェステルボルク、グール、メッヘレン、西ヨーロッパのドランシーなどの通過収容所や、イタリアのボルツァーノやフォッソリ・ディ・カルピのような強制収容所は、ユダヤ人の集合センターとして使用され、その後彼らは鉄道で絶滅収容所に移送されたのです。 親衛隊の報告によると、1945年1月に強制収容所に登録されていた囚人は、700,000人を超えていました。
ナチス収容所体制は、ナチス政権の政敵を抑圧するための制度として開始されました。第三帝国時代の初期の頃、ナチスは主に共産主義者と社会主義者を投獄しました。1935年ごろには、人種的または生物学的に劣っていると見なされる人々、特にユダヤ人の投獄も始まりました。第二次世界大戦中には、ナチス収容所体制の編成と規模が急速に拡大し、投獄目的でのみ使われていた収容所で強制労働や殺害もあからさまに行われるようになりました。
ドイツはドイツ占領下のヨーロッパ全域で、ドイツの支配に抵抗した人々や、劣った人種または政治的に好ましくないと判断した人々を逮捕しました。ドイツの支配に抵抗したという理由で逮捕された人々のほとんどは、強制労働収容所や強制収容所に送られました。第二次世界大戦によって、収容所の数と囚人の数がいずれも、これまでにないほどに増加しました。戦前に約2万5,000人であった囚人の数は、1942年3月には約10万人になるなど、3年間で約4倍に増え、収容所の囚人には、ヨーロッパのほぼすべての国の出身者が含まれるようになりました。強制収容所の囚人は文字どおり、死ぬまで働かされたのです。親衛隊の報告によると、1945年1月に強制収容所に登録されていた囚人は、70万人を超えていました。
ドイツ軍はユダヤ人を占領下のヨーロッパ全域からポーランドの絶滅収容所に移送し、そこでユダヤ人を組織的に殺害しました。また、強制収容所にも移送し、そこでユダヤ人は強制労働をさせられました(「労働を通じた絶滅」)。これに加え、数十万人のロマ族(ジプシー)とソ連軍戦争捕虜をも組織的に殺害しました。
重要な日付
1939年9月3日 敗北主義者が強制収容所に移送される 第二次世界大戦が始まってから3日後、親衛隊保安諜報部(SD)のラインハルト・ハイドリヒ指揮官は、ドイツの勝利や戦争の意味について公の場で疑問を投げかける者を即刻逮捕するよう命令します。戦争が進展するに伴い、逮捕者の数は増加していき、逮捕者の多くは裁判にかけられることなく、強制収容所へ直接移送されます。
1941年12月7日 ヒトラーが「夜と霧」命令を発令する アドルフ・ヒトラーの命令に従い、国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル総長は、「夜と霧」指令を発令します。この指令は、ドイツ占領地区でドイツの支配に抵抗した者は逮捕され、ドイツの強制収容所に移送されるという内容のものです。逮捕者は、家族や親戚に知らされることもなく、「夜と霧」の中に消えるように連れ去られす。この指令の条項に従って逮捕される人の数は約7,000人で、そのほとんどがフランスからの逮捕者です。逮捕者の大半は、グロース・ローゼン強制収容所とナッツヴァイラー・ストリュートフ強制収容所に移送されます。
1942年9月18日 強制収容所の囚人が「労働を通じた絶滅」の対象になる 司法省と親衛隊が、囚人を親衛隊の管轄に組織的に移動させることで合意します。司法省は、すべてのユダヤ人、ロマ族(ジプシー)、ウクライナ人に加え、3年を超える刑期を言い渡されたポーランド人、そして8年を超える刑期を言い渡されたチェコ人およびドイツ人を親衛隊の専属管轄下に置くことに合意します。これらの区分に当てはまる囚人は、死ぬまで強制収容所で労働させられるという、「労働を通じた絶滅」の対象となります。