ワルシャワのゲットーにおける蜂起 東欧各地のゲットーに住んでいたユダヤ人の多くは、ドイツ軍に抵抗するためのレジスタンスを組織し、密輸した武器や手製の武器で武装しようとしました。1941年から1943年までの間、約100のユダヤ人グループが地下抵抗運動を組織しました。ドイツ軍に対する武装抵抗の試みで最も有名なものは、ワルシャワのゲットーで起きました。

1942年の夏、約30万人のユダヤ人がワルシャワからトレブリンカに移送されました。絶滅収容所における大量殺戮のニュースがワルシャワのゲットーに漏れ伝わってきたとき、ほとんどが若者からなる生存者グループがZ.O.B.という名前の組織を作りました。Z.O.B.はポーランド語でユダヤ人戦闘組織という意味のZydowska Organizacja Bojowaの頭文字を取ったものです。Z.O.B.は、23歳のモルデハイ・アニエレヴィッツの指揮の下、ユダヤ人たちに列車に乗らないように抵抗するよう呼びかける声明を出しました。1943年1月、ゲットーの住民を集めて移送しようとしたドイツ軍に対してワルシャワのゲットーの戦闘員たちが発砲しました。戦闘員たちはゲットーに密輸したわずかな武器を使いました。数日後、ドイツ軍兵士は退去しました。ゲットーの戦闘員には、この小さな勝利は今後のレジスタンス活動に覚悟を決める上で励みとなりました。

1943年4月19日、生き残った住民を移送するためにドイツの軍と警察がゲットーに入った後に、ワルシャワのゲットー蜂起が始まりました。750人の戦闘員が良く訓練された重装備のドイツ軍と戦いました。ゲットーの戦闘員たちは1か月近く抵抗を続けることができましたが、1943年5月16日に蜂起は終わりました。ドイツ軍はレジスタンスをゆっくりと時間を掛けて潰しました。5万6,000人を超えるユダヤ人が逮捕され、7,000人が射殺され、残りはあちこちの収容所に移送されました。

重要な日付

1942年7月28日
ユダヤ人戦闘組織が結成される

ワルシャワのゲットーからトレブリンカ絶滅収容所への移送の第一波が進行中に、ユダヤ人戦闘組織(Zydowska Organizacja Bojowa、ZOB)が結成されます。1942年7月22日、ドイツは大量移送を開始します。それは1942年9月12日まで実質的に中断されることなく続けられます。この期間に、25万人を超えるユダヤ人がゲットーから移送されるか殺害されます。ZOBは、ユダヤ人青年団のメンバーによって構成され、ゲットーのユダヤ人に移送に抵抗するよう呼びかけます。移動虐殺部隊によるユダヤ人の虐殺や絶滅収容所でのユダヤ人の虐殺についての報告は既にゲットーに届いていました。しかし、ZOBはまだ蜂起する準備ができていません。9月に移送が終わった後、ZOBは政治的な地下組織のメンバーを入れて拡大し、訓練と武器と火薬類を提供してくれるポーランドレジスタンス軍との連絡を確立します。モルデハイ・アニエレヴィッツが指揮官に任命されます。

1943年1月18日〜21日
ドイツ軍が抵抗に遭遇する

ドイツ軍はワルシャワのゲットーからの移送を再開します。しかし、今度はZOB(ユダヤ人戦闘組織:Zydowska Organizacja Bojowa)の抵抗にあいます。早朝の一斉逮捕にZOBは不意を突かれ、人々は通りに出てドイツ軍に抵抗します。他のユダヤ人はゲットーに引き上げ、用意してあった隠れ家に逃げ込みます。ドイツ軍は排除が滞りなく進むと思っていたので、レジスタンスに驚きます。報復措置として、1月21日に1,000人のユダヤ人を中央広場で虐殺しますが、移送は一時停止します。ドイツ軍は5,000〜6,500人のユダヤ人を移送または殺害することができました。抵抗運動の結果に勇気付けられて、ゲットーのユダヤ人は全面的な蜂起を計画し準備します。戦闘組織は団結し、戦略が立てられ、地下壕とトンネルが構築され、屋根伝いの通路が建設されます。ワルシャワゲットーのユダヤ人は最後まで戦う覚悟はできています。

1943年5月16日
ゲットーの破壊と蜂起の終わり

1か月の戦いの後、ドイツ軍はワルシャワのグレート・シナゴーグを爆破して蜂起の終わりとゲットーの破壊の表れです。1943年4月19日、SS将軍ユルゲン・シュトロープの指揮下、ドイツ軍はゲットーの最終的な破壊と残りのユダヤ人の移送を開始しました。しかし、ゲットーの住民は移送のために集合せず、ゲットーの戦闘組織は建物や地下壕に立てこもってバリケードを築き、ドイツ軍に抵抗する用意をします。3日後、ドイツ軍はゲットーに火を放ち、建物の1つ1つから隠れていたユダヤ人をあぶり出します。ドイツ軍はゲットーを瓦礫の山に変えていきますが、抵抗は何週間も続きます。1943年1月の移送の後にゲットーに残っていたユダヤ人は約5万人ですが、シュトロープ将軍の報告ではゲットーの破壊後、5万6,065人のユダヤ人が逮捕され、そのうちの7,000人がトレブリンカの絶滅収容所に移送され、残りは強制労働収容所とマイダネクの絶滅収容所に送られたということです。レジスタンス戦闘員たちの一部はゲットーからの脱出に成功して、ワルシャワ周辺の森のパルチザングループに加わります。