A view of the death march from Dachau passing through villages in the direction of Wolfratshausen. [LCID: 48295]

死の行進

死の行進 大戦のほぼ末期、ドイツの軍事力が崩壊しかけていたとき、連合国軍はナチの強制収容所に接近していました。ソ連軍は東から、そして英国軍、フランス軍、米国軍は西から攻めかけました。ドイツは、前戦近くの収容所から囚人たちを死に物狂いでドイツ国内の収容所に移して、そこで強制労働者として働かせ始めました。囚人たちは、最初は列車で移送されましたが、後には徒歩で移動させられました。これは「死の行進」として知られるようになりました。

囚人たちは、寒さの厳しい中、食料、水、休憩をほとんどなくてあるいはまったく与えられないまま、長い距離を行進させられました。行進に付いていけない人は、射殺されました。最も規模の大きい死の行進が行われたのは、1944年から1945年にかけての冬でした。このとき、ソ連軍がポーランドを解放し始めていました。ソ連軍がアウシュビッツに到達する9日前、ドイツ軍は数万人もの囚人を収容所からウォジスワフに向けて行進させました。この町はそこから56キロほど離れており、囚人たちはそこで貨物列車に乗せられて、他の収容所に移送されました。その途中で、約4人に1人が亡くなりました。

ナチスは、行進の前、行進中、または行進後に囚人をまとめて殺害することがよくありました。1回の行進中、7,000人のユダヤ人囚人(そのうち6,000人が女性)が、北部にバルチック海を臨むダンツィヒ地域にあった収容所から移されました。10日間の行進中に、700人が殺害されました。バルチック海の海岸に到達したときに生きていた人たちも、無理やり海に追いやられ、射殺されました。

重要な日付

1945年1月18日
アウシュビッツ収容所システムからの死の行進が始まる

親衛隊は、アウシュビッツとその付随する収容所から撤退を始めます。約6万人の囚人が、アウシュビッツ収容所からの死の行進に参加させられます。数千人は、死の行進が始まる前の数日間に殺害されます。数万人の囚人は、そのほとんどはユダヤ人ですが、上部のシュレジエン西部の都市ウォジスワフに向けて行進させられます。親衛隊の護衛兵は、遅れるか歩けなくなる人はだれでも射殺します。アウシュビッツからの死の行進中、15,000人を超える人が亡くなります。ウォジスワフでは、囚人は暖房のない貨物列車に詰め込まれ、ドイツに移送されます。主な移送先は、フロッセンビュルク、ザクセンハウゼン、グロース・ローゼン、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、そしてマウトハウゼンです。1945年1月27日、ソ連軍がアウシュビッツに進軍し、残っているわずかな囚人を解放します。

1945年1月25日
シュトゥットホーフ強制収容所からの撤退と死の行進

ポーランド北部のシュトゥットホーフ強制収容所にいる約50,000人の囚人のほとんどはユダヤ人ですが、彼らはその収容所から撤退し始めます。シュトゥットホーフ補助収容所の約5,000人の囚人が、バルト海の海岸まで行進させられ、海に入るよう追い立てられ、マシンガンで射殺されます。その他の囚人は、ドイツ東部のラウエンブルクまで死の行進をさせられますが、進攻してきたソ連軍によって進路をふさがれます。ドイツ軍は、囚人たちをシュトゥットホーフに強制的に引き返させます。冬の厳しい気候条件での行進や、親衛隊の護衛兵のひどい扱いにより、死の行進中に数千人が亡くなります。1945年4月下旬、残っている囚人は海路でシュトゥットホーフから移動させられます。シュトゥットホーフがソ連軍によって完全に包囲されたためです。またしても、数百人の囚人が海に追い立てられ、射殺されます。実に2人に1人の割合の2万5,000人を超える囚人が、シュトゥットホーフから撤退する間に亡くなります。ソ連軍は、1945年5月9日にシュトゥットホーフに侵攻します。

1945年4月7日
ブーヘンヴァルト強制収容所からの死の行進

米国軍が接近するにつれて、ナチスは囚人をブーヘンヴァルト強制収容所とその補助収容所から大量に撤退させ始めます。約30,000人の囚人が、進攻してきる米国軍から遠ざかるように死の行進に追いやられます。この行進中、約3分の1の囚人が亡くなります。1945年4月11日、生き残った囚人たちがブーヘンヴァルト収容所を制圧しますが、これは米国軍が同じ日に入ってくる少し前のことです。

1945年4月26日
ダッハウ強制収容所からの死の行進

ダッハウ収容所の解放のわずか3日前、親衛隊は約7,000人の囚人をダッハウからその南にあるテーゲルンゼーまでの死の行進に追いやります。この6日間の死の行進の間、遅れるか歩けなくなる人はだれでも射殺されます。他の多くの人は、寒さや飢え、疲労のために亡くなります。米国軍がダッハウ強制収容所を解放するのは、1945年4月29日です。1945年5月上旬、米国軍は生き残っている囚人をテーゲルンゼーまでの死の行進から解放します。